いじめ一般論 | 誰もが心に日の丸を

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英霊を顕彰しよう。私達も、祖国を守ろう。

日本は一家。日本人は皆、兄弟。
一刻も早く、拉致被害者全員を取り戻そう。
さあ、新憲法を制定しよう。
前文、9条を潰そう。
日本を 名目上から、実際の独立国へ。
『戦後』に負け続ける祖国を 私達が止めよう。

いじめはいじめられる側にも問題、どう思う? ブログネタ:いじめはいじめられる側にも問題、どう思う? 参加中
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 いじめによる事件が、大きく報道されると、にわかに、いじめ一般に対する議論が、巻き起こります。
 例えば、この様なことが言われます。
 「 いじめは、いじめられる側が、いじめられていると、認識した時点で、始まっている 」と。
 それに対して、
 「 それは、いくら何でも、無いのではないでしょうか 」
とかね。
 私は、乱暴に言えば、どうでもいいです。
 いじめと認定すべきか否かといった、事柄で、人が死にますか。
 いじめに対する研究は必要です。私も参考にしています。
 いじめについて語られるその範囲が、非常に広いことに気付いてください。

 私は、日々、人との付き合いの中、暮らしの中で、苦痛を感じます。
 人との付き合いの中、①軋轢が生じます。
 そして、この苦痛を 相手に対して、何らかの表現に昇華させると、②いじめと認定される可能性が、出てきます。
 その表現が、エスカレートすれば、③犯罪と看做される事態となるかも知れません。
 更に、その表現が、エスカレートすれば、いじめられる側は、身の危険、④生命の維持の危機まで、感じることでしょう。
 また、エスカレートした、いじめの中には、犯罪とは看做されず、あくまで、いじめとして、いじめられる側を⑤自殺に追い込むものも、あるでしょうね。

 ここでまとめると、
 ①軋轢 → ②いじめ → ③犯罪 → ④生命の維持の危機
 と、エスカレートしていきます。
 そして、②③④から、⑤自殺が、生じます。
 ( また、自殺は、①からも、何もないところからも、生じます。これは余談です。人生の複雑さです )
 ここで問題は、
 ③④において、警察の介入と、いじめられる側の保護
 ②の、いじめへの対処でしょう。
 ①軋轢と、②いじめの間の話など、かなりどうでもいい話です。
 ただ、当然、この手の話が、一番たくさんある訳で、最も、多くの方が、悩んでいる筈です。
 そうして、どうしたって、個人差によるブレは、どうしようもなくある訳です。

 ところで、いじめは、遊びです。
 「 いじめではない、遊びだった 」
とは、おかしな言い分です。
 遊びが、犯罪になる事例など、いくらでもあるでしょう。一つ挙げると、無免許運転とかね。( この話を膨らますのは、ここで止めておきます )

 さて、アメーバからの命題、「 いじめはいじめられる側にも問題、どう思う? 」に、答えたいと思います。
 私の答えは、問題にする必要はない。というところです。
 いじめられる側の特徴に関しては、ある程度、絞れるでしょうし、実際に、研究されています。
 いじめる側についても同様です。
 いじめの種は、日常生活の中に、あるものです。これは、取り除くことのできないものです。
 つまり、誰もが、いじめる側に立ち、いじめられる側に立たされる、可能性があるのです。
 そして、いじめを見ている側は、いじめる側に立っていると、看做すべきです。
 いじめを見ている側 —— 彼らの行動が、社会・世間の質を決めると考えます。
 戦わなければ、どうしようもありません。