読者になったつもりはないんだが?
いつの間にか読者になっているのはなぜだか考えてみると、思い当たるのは2つ位
スマホの調子が悪いためか、他の要因があるのか、要因に思い当たるが言及はしないでおく
小林麻耶さん
海老蔵さん
色々な人が応援してますね
もし、ある誰かがしっかりと現実を見据え、しっかりと仕事なり治療法の研究なりを頑張っていたらもっと世界は進歩してもっと助かる人が増えるのではないかと、ふと思うが皆がそれをしないのは自分が何もできないからだ
俺もその一人だ
俺が誰かを助けたり、人の為になる何かを出来るかどうかは所詮結果論
何も医療に携わる人が研究しないといけないわけじゃなく、なんの関係もない人が研究してみたら意外と解決してしまうかもしれない
世に言う天才達が皆自分の能力を活かす仕事についているわけではなく、その場所に恵まれず仕方なく適性ではない仕事についているのが現実だろう
俺の好きな映画『グッドウィルハンティング』ではロビンウィリアムス演じる精神科医と、天才だけど肉体労働者をしている…名前が出てこないがこの作品が出世作の彼、ジェイソン・ボーンの彼が主演で、才能を数学教授に見出され、親友に後押しされながらロビンウィリアムスとの交流を通じて成長?していく物語だが、誰かの助けがなければ彼も天才としての自分を持て余しながら凡人として終わるだけだったろう
自分で説明しておいてよくわからない感じになってるが、要は天才もそれを発揮できなければ意味はないという事だ
下手をすれば天才も自分の才能に気付かないまま一生を終えるかもしれない
先進国ではまずそういう状況にはならないと思うが、発展途上国ではわからない
不幸、と言っていいのか、そういったものに見舞われるのは有名人だけではない
いつでも助けを求める誰かはいて、身近なそういう人の力になることが重要なのだと俺は思う
暇つぶしに見てる人がほとんどだろうが、そんな暇あるなら何かを頑張ったら?と大きなお世話を言いたくもなる
客商売をしていると、本当に何をしているんだかと言いたくなる人も多い
大変な思いをしている人がブログとか世の中に発信している理由は、決して見る人を楽しませる目的ではなく、注意を促し、願わくば自分達を知ることで対策を持ってもらいたいと思っているはずだ
解決できないことなら、それが現実になったときの対処法を紹介していたり、どうするかの一つの答えを教えてくれているのではないのか?
事件に巻き込まれた被害者家族の会
被害者になったりしなければその会に参加することはしないだろう
身を持って知ることで初めて行動を起こす
それがダメとは言わないが、それこそが人の持つ本質のうち、無知と怠惰だろう
被害者になる前に、被害者になった人に何かをしてあげたのだろうか?
被害者になった途端、人々の理解を望む
自分がそうだったように、誰も理解はしてくれないだろう
言葉で励まされても、心の中では『あなたに何がわかるのか』と思わないのか?
理解をするには自分も経験しないと理解し難いものだ
故に彼らの注意喚起も教訓もなかなか活かされず、世の中は何も変わらないのだ
多分、みんなそれを知ってるから形として援助してもらった時に感じる人の優しさに感動するし、負い目も感じるのだろう
悪く言えば現金な自分に気付くのかもしれない
それは当たり前のことだし、気付かない人もいる。
自分が気付ける人間だといい
だから敢えて言う
『頑張って下さい』
自分には、何もしてあげられることが無いけど
負けそうになったなら、誰かの助けを求めてもそれが自然なことだから
宮沢賢治の『雨ニモマケズ』
そういう人に私はなりたい
という一節があったと思うが、全く同感だ
自分がそうなるには少々?捻くれているかな
いつの間にか読者になっているのはなぜだか考えてみると、思い当たるのは2つ位
スマホの調子が悪いためか、他の要因があるのか、要因に思い当たるが言及はしないでおく
小林麻耶さん
海老蔵さん
色々な人が応援してますね
もし、ある誰かがしっかりと現実を見据え、しっかりと仕事なり治療法の研究なりを頑張っていたらもっと世界は進歩してもっと助かる人が増えるのではないかと、ふと思うが皆がそれをしないのは自分が何もできないからだ
俺もその一人だ
俺が誰かを助けたり、人の為になる何かを出来るかどうかは所詮結果論
何も医療に携わる人が研究しないといけないわけじゃなく、なんの関係もない人が研究してみたら意外と解決してしまうかもしれない
世に言う天才達が皆自分の能力を活かす仕事についているわけではなく、その場所に恵まれず仕方なく適性ではない仕事についているのが現実だろう
俺の好きな映画『グッドウィルハンティング』ではロビンウィリアムス演じる精神科医と、天才だけど肉体労働者をしている…名前が出てこないがこの作品が出世作の彼、ジェイソン・ボーンの彼が主演で、才能を数学教授に見出され、親友に後押しされながらロビンウィリアムスとの交流を通じて成長?していく物語だが、誰かの助けがなければ彼も天才としての自分を持て余しながら凡人として終わるだけだったろう
自分で説明しておいてよくわからない感じになってるが、要は天才もそれを発揮できなければ意味はないという事だ
下手をすれば天才も自分の才能に気付かないまま一生を終えるかもしれない
先進国ではまずそういう状況にはならないと思うが、発展途上国ではわからない
不幸、と言っていいのか、そういったものに見舞われるのは有名人だけではない
いつでも助けを求める誰かはいて、身近なそういう人の力になることが重要なのだと俺は思う
暇つぶしに見てる人がほとんどだろうが、そんな暇あるなら何かを頑張ったら?と大きなお世話を言いたくもなる
客商売をしていると、本当に何をしているんだかと言いたくなる人も多い
大変な思いをしている人がブログとか世の中に発信している理由は、決して見る人を楽しませる目的ではなく、注意を促し、願わくば自分達を知ることで対策を持ってもらいたいと思っているはずだ
解決できないことなら、それが現実になったときの対処法を紹介していたり、どうするかの一つの答えを教えてくれているのではないのか?
事件に巻き込まれた被害者家族の会
被害者になったりしなければその会に参加することはしないだろう
身を持って知ることで初めて行動を起こす
それがダメとは言わないが、それこそが人の持つ本質のうち、無知と怠惰だろう
被害者になる前に、被害者になった人に何かをしてあげたのだろうか?
被害者になった途端、人々の理解を望む
自分がそうだったように、誰も理解はしてくれないだろう
言葉で励まされても、心の中では『あなたに何がわかるのか』と思わないのか?
理解をするには自分も経験しないと理解し難いものだ
故に彼らの注意喚起も教訓もなかなか活かされず、世の中は何も変わらないのだ
多分、みんなそれを知ってるから形として援助してもらった時に感じる人の優しさに感動するし、負い目も感じるのだろう
悪く言えば現金な自分に気付くのかもしれない
それは当たり前のことだし、気付かない人もいる。
自分が気付ける人間だといい
だから敢えて言う
『頑張って下さい』
自分には、何もしてあげられることが無いけど
負けそうになったなら、誰かの助けを求めてもそれが自然なことだから
宮沢賢治の『雨ニモマケズ』
そういう人に私はなりたい
という一節があったと思うが、全く同感だ
自分がそうなるには少々?捻くれているかな