英国人たなにあがりすぎ | 忘れないようにメモメモ(日本の歴史、近代史)

英国人たなにあがりすぎ

かつて東アジア文明圏の中にある極東の一民族が、その文明圏の平和な技藝に自足してゐたとき、欧米の文明に〝野蛮〟、〝半開〟といやしめられ、自分をいやしんだ文明をならつて、もうひとつの新文明を作り上げた。
「大和」は日本海軍といふ文明機構が生んだ新文明の象徴であつたといへよう。自衛のために模倣を強ひられた新文明の象徴は、必敗を予想しつつ奮闘してほろびる遠い、古い美意識に殉じた。
 ひとりのイギリス人のヂャアナリストは、「大和」の特攻を論じて、さういふ美意識を知るのは日本人と英国人のみといふ。(ラッセル・スパア『死への栄光の道』一九八一年)それが独断でないかどうかわからない。
 彼はまた、「大和」沈没して海中に漂ふ無力な戦闘員を銃撃しつづけたアメリカ人の残虐性は、四ヶ月後の原爆投下で、その頂点に達することになる、とも書いている。
 しかし、日本人も捕虜虐待について同じだつたと付け加へるのを忘れない。
 ただ彼が、そこでもつともふさはしい聯想として回想しなかつたのは、マレエ沖開戦で英国海軍の浮沈戦艦「プリンス・オブ・ウェールズ」を撃沈した日本航空機が、海中に漂ふイギリス将兵に、一弾の銃撃も加へなかつたこと、さらに翌日、敵艦沈没の洋上地点の上空を日本戦闘機が旋回し、花束を投じた鎮魂の行為である。
(「昭和精神史」桶谷秀昭)





「自衛のために模倣を強ひられた新文明の象徴は、必敗を予想しつつ奮闘してほろびる遠い、古い美意識に殉じた」
ここがすごくかなしい。自分たちの国を守るために自分たちの文明を捨てなければならなかった。
しかし欧化政策をいくら進めたところで日本は日本であるということに気づいただけだった。欧化することで植民地化の恐怖から抜け出せたと思ったのは錯覚だった。大東亜戦自体は自衛戦だったけど、その中身は複雑で、矛盾だらけで、全体像を掴むのは容易な事ではない。