「僕は馬鹿だから反省なんぞしない」
「僕は馬鹿だから反省なんぞしない」ーー小林秀雄の「放言」に学ぶ
戦後五十年、平成七年という年は本来ならばいよいよここに来て戦後のせかいを埋め尽くしてきた占領軍によって強制された歴史観の軛を脱して、新生日本の門出を祝福すべき年であったが、周知の通り6月9日にはいわゆる「国会決議」が可決、さらにこれに追い討ちをかけるように、八月十五日には村山首相の談話が発表されて、新生の門出どころか、ただひたすら今次大戦に対する反省と謝罪のムードが国を蔽っているかに見える。いつになったら日本はこの暗鬱な世界から脱却して、本来の正気をとりもどし、爽やかな青空を仰ぐことができるのだろう。歴史への反省、謝罪、そういう言葉に埋め尽くされているさなか、私の胸に絶えず蘇ってくるのは小林秀雄の一つのエピソードである。
昭和二十一年春、終戦直後の頃、小林秀雄は、『近代文学』のグループによる「小林秀雄をかこんで」という座談会で、戦争に対する反省のことが話題にのぼったとき、「僕は馬鹿だから反省なんぞしない。悧巧な奴は勝手にたんと反省すればいいだろう」と放言したという。小林氏はそのことを後に「吉田満の『戦艦大和の最期』」(昭和二十四年)という一文の中で紹介して、さらに次のようにつづけている。
「……と放言した。今でも同じ放言をする用意はある。事態は一向に変わらぬからである。反省とか清算とかいふ名の下に、自分の過去を他人事のように語る風潮は、いよいよ盛んだからである。そんなおしやべりは、本当の反省とは関係がない。過去の玩弄である。これは敗戦そのものより悪い。個人の生命が持続してゐる様に、文化といふ有機体の発展にも不連続といふものはない」
『近代文学』という同人誌は昭和二十一年一月に創刊、本多秋五、平野謙、荒正人、佐々木基一、小田切秀夫などという戦後の文学界、思想界をリードする錚々たるメンバーによって発刊された文芸誌であった。その創刊第二号に、この座談会の記事は掲載されたのである。戦後思想の滔々として流れる風潮のただ中で、当時のインテリの代表的な面々を前にしてズバリと所信を披瀝した目の覚めるような発言であった。その後小林自身、繰り返しこの「放言」について語っているところからしても、あるいは「今でも同じ放言をする用意はある」という語気からしてもこの「僕は馬鹿だから反省なんぞしない」という言葉は、小林氏の「戦後」の出発を象徴するメルクマールであった。
とりわけ戦後五十年、 この一年に起きたさまざまの事件を思い返すときに、この一語の重さにはだたならぬものがあると思われる。
この一語には小林氏の人生の重さのすべてがかかっている。それは単に戦後の一時期の風潮に対する批判ではなく、日本近代のインテリの本質に対する批判でもあった。「反省とか清算とかいう名の下に、自分の過去を他人事のように語る風潮」とは決して戦後だけのことではなかった。前文より二年後、昭和二十六年に書かれた『政治と文学』の中でも、小林氏は再び「僕は馬鹿だから……」と「放言」した経緯を述べた後、「マルクス主義文学運動の盛んだつた当時、清算という言葉がよく使われたが、私はあの言葉が大嫌ひであった。その大嫌ひな言葉が戦後又復活した」と書いている。問題はすでにマルクス主義文学が盛んだった昭和の初期にさかのぼるのである。「清算」という一つの言葉を呪文のように唱えると、自分の過去は、いま生きている自分と切り離されて、そこにまつわる一切の影は消え去ってしまう。離そうとしても離せない苦渋に満ちた己の過去を他人事のように語り、第三者のように批評するインテリ、それが過去の玩弄でなくてなんだろう。個人であれ文化であれ、有機体に不連続というものはありえない。昭和二十三年、『私の人生観』に書かれた次の言葉も同じことであった。「今日のような批評時代になりますと、人々は自分の思ひ出さへ、批評意識によつて滅茶苦茶にしてゐるのであります。戦ひに敗れた事がうまく思ひ出せないのである。その代わり過去の批判だとか清算だとかいふ事が盛んに言はれる。これは思ひ出すことではない。批判とか清算とかの名の下に、要するに過去は別様にあり得たであらうという風に過去を扱つてゐるのです」
「戦ひに敗れた事がうまく思ひ出せない」。それは批評意識にとらわれているからにほかなるまい。母親はとりかえしのつかない子供の死を、そして可愛かった子供のしぐさを、ありありと、いつどこででも思い出すことができる。このあとで小林氏が使っている言葉を用いるなら「私達がその日その日を取り返しがつかず生きてゐるといふ事に関する、大事な或る内的感覚」が生きていれば思い出は生き生きと蘇る。その思い出が胸に生きいている者にとって、反省とか、清算などというインテリの心の働きに何の魅力があろう。もう一つ、小林氏の言葉を引こう。
「宮本武蔵の独行道のなかの一条に『我事に於て後悔せず』といふ言葉がある。……これは勿論一つのパラドックスでありまして、自分はつねに慎重に正しく行動してきたから、世人のように後悔などはせぬといふ様な浅薄な意味ではない。今日の言葉で申せば、自己批判だとか自己清算だとか言うものは、皆嘘の皮であると、武蔵は言つてゐるのだ。そんな方法では、真に自己を知ることはできない、さういふ小賢しい方法は、寧ろ自己欺瞞に導かれる道だと言へよう。さういふ意味合ひがあると私は思ふ。昨日の事を後悔したければ、後悔するがよい。いづれ今日の事を後悔しなければならぬ明日がやつて来るだらう。その日その日が自己批判に暮れる様な道を何処まで歩いても、批判する主体の姿に出会ふ事はない。別な道が屹度あるのだ。自分という本体に出会ふ道があるのだ。後悔などといふお目出度い手段で、自分をごまかさぬと決心してみろ、さういふ確信を武蔵は語つてゐるのである。それは、今日まで自分が生きて来たことについて、その掛け替へのない命の持続感といふものを持て、といふ事になるでせう。そこに行為の極意があるのであつて、後悔など先に立つても立たなくても大した事ではない、さういふ極意に通じなければ、事前の予想も事後の反省も、影と戯れるようなものだ、とこの達人は言ふのであります」
「後悔などといふお目出度い手段で、自分をごまかさぬと決心してみろ、さうすれば自分という本体に出会うことができる」。「勝手に反省するがいい」と言い放った小林氏の真意はそこにあったので、その言葉は今の日本を生きるわれわれが一度は自分の胸に問い直すべき重大な発言であった。
『教室から消えた「物を見る目」、「歴史を見る目」』小柳陽太郎
「昨日の事を後悔したければ、後悔するがよい。いづれ今日の事を後悔しなければならぬ明日がやつて来るだらう~」
この辺がいいです。ささります。
過去の自分のやったことを反省してみせることで、過去の自分と今の自分が切り離される訳ではないのに、まるで他人がやったことのように断罪してみせる。
それは反省ではなく、パフォーマンスでしかない。
戦後五十年、平成七年という年は本来ならばいよいよここに来て戦後のせかいを埋め尽くしてきた占領軍によって強制された歴史観の軛を脱して、新生日本の門出を祝福すべき年であったが、周知の通り6月9日にはいわゆる「国会決議」が可決、さらにこれに追い討ちをかけるように、八月十五日には村山首相の談話が発表されて、新生の門出どころか、ただひたすら今次大戦に対する反省と謝罪のムードが国を蔽っているかに見える。いつになったら日本はこの暗鬱な世界から脱却して、本来の正気をとりもどし、爽やかな青空を仰ぐことができるのだろう。歴史への反省、謝罪、そういう言葉に埋め尽くされているさなか、私の胸に絶えず蘇ってくるのは小林秀雄の一つのエピソードである。
昭和二十一年春、終戦直後の頃、小林秀雄は、『近代文学』のグループによる「小林秀雄をかこんで」という座談会で、戦争に対する反省のことが話題にのぼったとき、「僕は馬鹿だから反省なんぞしない。悧巧な奴は勝手にたんと反省すればいいだろう」と放言したという。小林氏はそのことを後に「吉田満の『戦艦大和の最期』」(昭和二十四年)という一文の中で紹介して、さらに次のようにつづけている。
「……と放言した。今でも同じ放言をする用意はある。事態は一向に変わらぬからである。反省とか清算とかいふ名の下に、自分の過去を他人事のように語る風潮は、いよいよ盛んだからである。そんなおしやべりは、本当の反省とは関係がない。過去の玩弄である。これは敗戦そのものより悪い。個人の生命が持続してゐる様に、文化といふ有機体の発展にも不連続といふものはない」
『近代文学』という同人誌は昭和二十一年一月に創刊、本多秋五、平野謙、荒正人、佐々木基一、小田切秀夫などという戦後の文学界、思想界をリードする錚々たるメンバーによって発刊された文芸誌であった。その創刊第二号に、この座談会の記事は掲載されたのである。戦後思想の滔々として流れる風潮のただ中で、当時のインテリの代表的な面々を前にしてズバリと所信を披瀝した目の覚めるような発言であった。その後小林自身、繰り返しこの「放言」について語っているところからしても、あるいは「今でも同じ放言をする用意はある」という語気からしてもこの「僕は馬鹿だから反省なんぞしない」という言葉は、小林氏の「戦後」の出発を象徴するメルクマールであった。
とりわけ戦後五十年、 この一年に起きたさまざまの事件を思い返すときに、この一語の重さにはだたならぬものがあると思われる。
この一語には小林氏の人生の重さのすべてがかかっている。それは単に戦後の一時期の風潮に対する批判ではなく、日本近代のインテリの本質に対する批判でもあった。「反省とか清算とかいう名の下に、自分の過去を他人事のように語る風潮」とは決して戦後だけのことではなかった。前文より二年後、昭和二十六年に書かれた『政治と文学』の中でも、小林氏は再び「僕は馬鹿だから……」と「放言」した経緯を述べた後、「マルクス主義文学運動の盛んだつた当時、清算という言葉がよく使われたが、私はあの言葉が大嫌ひであった。その大嫌ひな言葉が戦後又復活した」と書いている。問題はすでにマルクス主義文学が盛んだった昭和の初期にさかのぼるのである。「清算」という一つの言葉を呪文のように唱えると、自分の過去は、いま生きている自分と切り離されて、そこにまつわる一切の影は消え去ってしまう。離そうとしても離せない苦渋に満ちた己の過去を他人事のように語り、第三者のように批評するインテリ、それが過去の玩弄でなくてなんだろう。個人であれ文化であれ、有機体に不連続というものはありえない。昭和二十三年、『私の人生観』に書かれた次の言葉も同じことであった。「今日のような批評時代になりますと、人々は自分の思ひ出さへ、批評意識によつて滅茶苦茶にしてゐるのであります。戦ひに敗れた事がうまく思ひ出せないのである。その代わり過去の批判だとか清算だとかいふ事が盛んに言はれる。これは思ひ出すことではない。批判とか清算とかの名の下に、要するに過去は別様にあり得たであらうという風に過去を扱つてゐるのです」
「戦ひに敗れた事がうまく思ひ出せない」。それは批評意識にとらわれているからにほかなるまい。母親はとりかえしのつかない子供の死を、そして可愛かった子供のしぐさを、ありありと、いつどこででも思い出すことができる。このあとで小林氏が使っている言葉を用いるなら「私達がその日その日を取り返しがつかず生きてゐるといふ事に関する、大事な或る内的感覚」が生きていれば思い出は生き生きと蘇る。その思い出が胸に生きいている者にとって、反省とか、清算などというインテリの心の働きに何の魅力があろう。もう一つ、小林氏の言葉を引こう。
「宮本武蔵の独行道のなかの一条に『我事に於て後悔せず』といふ言葉がある。……これは勿論一つのパラドックスでありまして、自分はつねに慎重に正しく行動してきたから、世人のように後悔などはせぬといふ様な浅薄な意味ではない。今日の言葉で申せば、自己批判だとか自己清算だとか言うものは、皆嘘の皮であると、武蔵は言つてゐるのだ。そんな方法では、真に自己を知ることはできない、さういふ小賢しい方法は、寧ろ自己欺瞞に導かれる道だと言へよう。さういふ意味合ひがあると私は思ふ。昨日の事を後悔したければ、後悔するがよい。いづれ今日の事を後悔しなければならぬ明日がやつて来るだらう。その日その日が自己批判に暮れる様な道を何処まで歩いても、批判する主体の姿に出会ふ事はない。別な道が屹度あるのだ。自分という本体に出会ふ道があるのだ。後悔などといふお目出度い手段で、自分をごまかさぬと決心してみろ、さういふ確信を武蔵は語つてゐるのである。それは、今日まで自分が生きて来たことについて、その掛け替へのない命の持続感といふものを持て、といふ事になるでせう。そこに行為の極意があるのであつて、後悔など先に立つても立たなくても大した事ではない、さういふ極意に通じなければ、事前の予想も事後の反省も、影と戯れるようなものだ、とこの達人は言ふのであります」
「後悔などといふお目出度い手段で、自分をごまかさぬと決心してみろ、さうすれば自分という本体に出会うことができる」。「勝手に反省するがいい」と言い放った小林氏の真意はそこにあったので、その言葉は今の日本を生きるわれわれが一度は自分の胸に問い直すべき重大な発言であった。
『教室から消えた「物を見る目」、「歴史を見る目」』小柳陽太郎
「昨日の事を後悔したければ、後悔するがよい。いづれ今日の事を後悔しなければならぬ明日がやつて来るだらう~」
この辺がいいです。ささります。
過去の自分のやったことを反省してみせることで、過去の自分と今の自分が切り離される訳ではないのに、まるで他人がやったことのように断罪してみせる。
それは反省ではなく、パフォーマンスでしかない。