再度投稿!日中戦争・戦記・ある兵士の『思い出』特集⑤ | 真実の空模様

真実の空模様

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(つづき)

私もウトウトとしていた。すると、誰かが首に巻いて汗にまみれた汚れた私の手ぬぐいをすっと引き抜く者がいた。それは、小さな敵の兵士、食事もろくに食べない捕虜の少年だった。
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何奴、盗むてもりか?と尚もじっと眠ったふりをしていた。そうすると、彼は私の手ぬぐいを道脇の河原の清流でゴシゴシ洗って硬く絞り、黙って私の頭にのせて去って行った。不思議な現象だ。5分くらいして目を開けると10㍍位のところから私の反応をじっと見ていた。私はその少年の顔を指差して、

『ニイデ?』
(お前か?)

と言うとコクりと頷いた。
『ライ!』
(来い!)

と言うと恐る恐る近寄ってきた。

『ニイ、飯要、不要?』
(お前、飯は要るか要らぬか)

今度は、あっさり

『要』(いる)

と答えた。私は飯盒ごと彼に渡した。

一昨日から全く食っていなかったであろう彼には少し不足かもしれないが。
全部食べ終わると河原で綺麗に洗って持って来た。

彼は手ぬぐい指して

『好、不好?』(よいか悪いか?)

と聞く。

私は非常に喜んで

『頂好』(いいよ)

と言った。


かくして以後、私と少年兵は急速に親密の度合いを増し、休憩時にはまず私のために木の枝を折ってきて木陰を作ったり、水筒の水を満たしたり、最初は遠慮していたが、次第に私の隣に来て腰を下ろすようになった。そうしているうちに、戦友や上官からは良いボーイが見つかったな位に大目に見て貰えるようになった。

雷雷雷雷雷雷雷
こうしている間にも敵情は入電する。集結中の敵部隊は高い崖にある二つの部落に約七千名、私が今いる場所は中国中央軍約二十四個師団の補給経路であった。しかし、今回の作戦で次々と敵の陣地を占領したので敵は総じて退却となり中支へ逃げようと集結していたわけである。

いよいよ作戦のための前進が始まった。

連隊副官のW大尉に前進して写真を撮りたい旨、申し出たが、途中、敗残兵士が退却中で、一個中隊(約百五十名)以上の兵力でないと行動は不可能と許可されなかった。

暫くすると、前方の川原にポプラ並木のある部落が見えてきた。進軍が止まる。歩兵砲中隊のみ前進する。固唾を呑む。先程の少年(彼)が私のところへ他の少年二人を連れて来て、この二人も空腹であると訴えてきた。


ニコニコ撫子解説
少年兵は三人捕虜になっていましたよねグッド!


私はやむなく雑嚢から乾パンを一袋取り出し、中に十粒入ってる金平糖を抜き取りパンのみを彼に渡してやった。いつ食糧補給があるかわからないのに、二食分を渡してしまった。

しかし、彼は得意げに二人の少年兵に自慢顔だった。

はっ?私は思った。

私は連隊の中枢にいる。

軍旗、大切な命令書、暗号など敵が欲しいものばかりある。

子供とはいえ敵兵だったのだ、油断は禁物だ。正規軍の制服を着ている中国兵ではないか。心を許してはならない、と。

成人でないため縄で縛ったりはしていない。従って、逃亡要素大である。

しかし、

父母の恋しい頃だろうが、、、。

現実はあまりにも厳しい。彼等は捕虜なのだ。
でも、出来れば放ってやりたい、またしかし、捕虜を逃せば処罰を受ける。

それが軍規である。

彼等はある場所で後方部隊へ引き渡すことになっている。そうなれば、捕虜収容所へ送られるだろう。

葛藤の中、私は通訳を呼び少年兵の身元調査を行うことにした。

通訳はK通訳官、中国語に堪能なだけでなく聞き手が上手い。

彼、私の側近にいた少年であるが・・・

名前は李栓
(リファン)
年齢十二歳、出生地は河北省温県、家族は父亡き、母、兄二人、兄二人は共に中国軍に徴兵。

子供の言うことで詳しく判明しないが、彼の話を要約すると、家は中流農家程度であったようだ。父母と兄二人の五人家族だったらしい。食糧も不自由なく馬、牛、豚と鶏もいたという。
ある日、中国軍大部隊が村にやって来て『現在、中国は日本に攻められ戦争をしている、今、我々はその日本兵を追いやるために動いている。その為には、たくさんの食糧と金が必要である。また、若い兵隊も必要だ。』と言って若者と麦と金を村から持って行ったそうだ。

こうして部隊が村に寄る度に金品を徴収され、金品のない家からは若者を連れ去ったそうである。

李一家も同様の運命であったが、まず土地を手放し金に代え、金が無くなると兄二人が拉致された、父は土地も子供二人を失い、狂い死したそうである。

そして残った彼も11才の時の春に連れて行かれたという。流石に戦闘には参加さず、前線司令部の軍医士官の当番兵ということだったが、小銃、手榴弾、拳銃の操作は心得ていた。


ニコニコ撫子メモ
原文中、注釈として記載されていました。この軍医は捕虜となっていた者で長崎医科専門校卒、日本語については、日本人と変わらない程、達者だったそうです。



そこで私は通訳を介し幾つか尋ねてみた。

それが思いもよらぬ展開になるとは・・・。


(つづく)

記:真正大和撫子

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(つづき)

そこで私は通訳を介し幾つか尋ねてみた。それが思いもよらぬ展開になるとは・・・。


少年は、捕虜になった時の話を始めたのだ。


朝早く騒々しいと思っていたという、いつものように演習かなんかと思っていたらしい。軍医の洗面の準備をしていたら見たこともない制服の兵隊に囲まれたというのだ。少年が後で聞いた話として、彼等が気がついたら、将校以上の上級者は、死守せよと言い放ち逃げて行ったという。

なんという統率だ。


通訳を介し聞いてみた。

私『仕事は?』
李『軍医の身の回りの世話で当番だった』
私『お前位の子供は何人いたか?』
李『捕虜になった三人』
私『故郷に帰りたくないか?』
李『帰って母と暮らしたい』
私『では帰してやろう』
李『いやだ』
私『何故だ』
李『今は帰りたくない』
私『何故だ』
李『大人(私のこと)は逃げれば殺す、と言ったじゃないか、それに逃がしてくれても、また中国兵がやって来て連れていかれるから。それに母親も故郷にいるかわからないし、。』

寂しそうに目に涙をいっぱいためている。

李『日本軍は捕虜を殺すの?』
私『いや殺さない、命令に従えば絶対に殺さない。』
李『でも自分の上官は何時も兵隊に言っていた、東洋鬼(日本兵)は捕虜を全部殺すから捕虜になるなら死ぬまで戦えと。』
私『それは嘘だ。』
李『ではこんな多数の捕虜をどうするのか?』
私『捕虜収容所に皆、連れて行って仕事をさせるのだ。』
李『俺も行くのか。』
私『そうだ。』
李『行きたくない、そんなとこ』
私『でも仕方ない、それが戦争の決まりなのだ。捕虜は逃亡すれば殺される。おとなしく命令に従っていれば、戦争が終わった時に皆故郷に帰してやる。仕事はきついかも知れないが、我慢して生き延びたほうがよいのではないか。』
李『何時、戦争は終わるのか?』
私『それは判らないが、中国の親分が負けたと言うまで続くだろう。』
李『仕方がないなあ』

これで通訳を介した会話は終わった。彼は私の服や靴下を洗濯し干し上がったものを持ってきた。この辺の仕事は十二歳とは思えぬ程よく気が付き上手にやる。飯は食べたかと聞くと、大人の労力から貰って食べたということ。


ニコニコ撫子解説
『労力』また出てきましたね。アシスタントみたいなものだそうですよ。


二人きりの会話になった。当時の私のシナ語はイエスかノーくらいで役には立たないが身振り手振り付きの会話であった。

私『わかるか?』
階級章を見せて、
李『ミンパイシャントンピン(上等兵だろ)』
私『何をする兵隊かわかるか?』
李『プーチド(わからない)』

16㍉撮影機と写真機を見せて、
私『何かわかるか?』
李『わからない』
と首を振る。
私『これで写真という絵を撮り記録して、、』
李『わかった、でも見たことない』
私『これが仕事だ』
李『わかった』
と大きく頷いた。


私の簡単な自己紹介が終わった。

また続けて、
私『捕虜収容所に行きたくないと言っも無理だ、それが決まりなのだ』
李『・・・』
無言で頷いた。また、収容所はどこにあるのかと聞いてきた。
私『太原というところを知っているか?』
李『知らない』
私『北京は?』
李『聞いたことあるがわからない』

色々聞いてみたが地理的素養は全くない。

ここから西の方へ毎日歩いて七日程たったら安巴という駅に着く、火車(汽車)で北へ一日行くと太原という山西省で一番大きな町に着く。さらに火車(汽車)で東へ一日、また北に向かって一日行くと北京といって昔中国の大人がいた大きな町に着く。更に火車(汽車)で北に向かって天津、山海関を経て二日程行くと奉天という満州の大きな町に着く。

ここではもう戦争もなく、中国の良民と日本人が仲良く暮らしているが恐らく捕虜達はこの付近の炭鉱で石炭掘りをさせられるであろう。と大筋を説明した。

身振り手振りでも大方理解したみたいだ。

両目に涙を一杯ためている。不安な様子がわかる。十二歳の少年だからか、いじらしく不憫だ。しかし気休めは言えない。

石炭掘りはいやだと言っている。どんな辛い仕事でもやるから私の労力にしてくれと言っている。

ボロボロと泣き懇願する姿に、何とかして助けてやりたいと私は思った。しかし私は一兵卒、捕虜の処遇に関して権限もなければ意見具申する資格もない。

少年兵を逃がしたとて戦況に影響はない。しかし、軍規により私は処刑されるであろう。また逃げたとて無事は保障できない。

『よし考えておこう』と曖昧な応え方をしてしまった私である。

それからの李は私の労力になったつもりで働いた。


こうした中で戦況戦果の知らせは刻々と入った。

補給経路も整備され羊羹やかりんとう、酒、タバコも届いた。給与係に無理を言い甘味品を余分に貰い李に渡した。

道路も着々とできた、開通すれば捕虜を収容所へ送ることになっている。

そうすれば、李は収容所へ行くことになる。

連隊本部に報告が入ったのは、それから間もなくしてのことだった。



道路が開通した。


(つづく)


記:真正大和撫子