ジャニス・ジョプリンは1970年10月4日に亡くなりました。享年わずかに27歳です。還暦を過ぎたロック・スターも多い今から振り返れば驚くべき夭折ぶりですけれども、この頃はまだ若者の早すぎる死には世界は慣れっこでした。第二次大戦後まだ四半世紀ですから。

 ジミ・ヘンドリックスが同年9月、ジム・モリソンが翌年7月。この頃、ロック・スターは夭折することが運命のように感じられたものです。それだけ当時のロックはひりひりするような凄味を放っていたということでしょう。ジャニスの歌はその最右翼でした。

 本作品はジャニスの遺作であり、最大のヒット作となったアルバム「パール」です。ジャニスの死は本作品の制作中に突然訪れました。ヘロインの過剰摂取による事故死ですから、制作中にその影響があったというわけではなく、最後まで全力投球でした。

 前作を発表して以降、ジャニスは彼女のバンド、コズミック・ブルース・バンドを解散させ、しばrく休暇をとっています。そこでリフレッシュした彼女は自分自身でバンドを組み直すこととし、ここに本作品の制作にあたるフル・ティルト・ブギーが誕生します。

 メンバーにはコズミック・ブルースからは二人だけが残り、タレント・ハントで3名をリクルートしてフレッシュなバンドとなりました。ジャニスは超絶ボーカリストなのに不思議にバンドにこだわるところがあります。彼女の伝記映画「ローズ」をみると少し気持ちは分かりますね。

 プロデューサーには彼女が熱望していたポール・ロスチャイルドの起用に成功しました。彼はドアーズやバターフィールド・ブルース・バンドのプロデューサーとして知られる人ですけれども、結局はこのアルバムが「ぼくにとっても恐らくベスト・アルバムだ」。

 ジャニスの訃報はアルバムの4分の3が完成した時でした。マネージャーだったジョン・バーン・クックのライナーによれば、そこからバンドは「4週間かけて、録音されてあったジャニスのヴォーカルに合うような全く新しいインストゥルメンタル・トラックを構築した」のだそうです。

 それはもはや神がかったような状況だったようです。「あの声にはまさしく何かがあった。とてつもない何かが」、「我々は一瞬凍りついてしまった。そのムードというか、偉大さに」。こうなるとヴォーカルと演奏は次元を超えたところで一体化していきます。

 こうして誕生した傑作です。最初の「ジャニスの祈り」から「クライ・ベイビー」で、まずジャニスの絶唱に凍りつきます。ボートラで「クライ・ベイビー」のライヴが収録されているのですが、演奏はレコードの方がよほど素晴らしいです。神がかりが体験できます。

 アルバムの最大のヒットは全米1位の「ミー・アンド・ボビー・マギー」です。これはジャニスには珍しくフォーク調の曲で、存命であればこんな歌もたくさん歌ってくれただろうにと思ってしまいます。稀代のボーカリストは当然何でも歌いこなします。

 アルバムは9週連続全米1位を記録しました。ひりひりするようなボーカルの詰まった、シリアスで重いアルバムがそれだけのヒットを記録したのも1970年前後の時代ならではです。ロックの凄味を味わうことのできる名盤中の名盤です。

Pearl / Janis Joplin (1971 Columbia)