子どもの頃に教科書で学んだことというのは身体の奥深くに埋め込まれていて案外覚えているものです。意識していなくても、教科書で培われた知識の枠組みは強固なもので、これを大人になってから上書きしていくことは結構難しいものです。

 歴史教科書を巡るせめぎあいは実は本質をついているわけです。自分たちの思う方向に誘導したい時は、教科書を攻めていくのが最も効率がよいということになります。教科書は戦略的にはとても大切なソースなのでした。

 バッハの「インヴェンションとシンフォニア」は長男ヴィルヘルム・フリーデマンの演奏と作曲の教育用に作曲されています。初期稿が書き込まれたのは1722年のことですから、当時ヴィルヘルム君は12歳でした。まさに子ども向けですね。

 2声のインヴェンションと3声のシンフォニアがそれぞれ15曲ずつ、それぞれは長くても3分に満たない鍵盤楽器のための曲が全部で30曲となっています。ピアノ教育のための作品として今でも高く評価されており、学習者の定番となっているようです。

 この作品で、高橋悠治はこの曲をバッハの最終稿の順番をやめて、初期稿の曲順をヒントにして独自の曲順で演奏しています。また、同じ調のインヴェンションとシンフォニアを交互に演奏することでよりその曲順の独自性が際立っています。

 その意図はやさしい曲から複雑な曲へという本来の構成に戻すということだそうです。私はピアノが弾けないので、やさしいのか難しいのか分かりませんけれども、まるで違和感を感じることがありませんから、恐らく高橋の意図は効果を上げているのでしょう。

 高橋のピアノは残響があまり残らない印象があります。そのためサティーの演奏などはあまり私は好きではないのですが、このバッハはそれがかえってよい気がします。装飾稿を使ってはいても教育曲ですから、そうした音がよく似合います。

 本作品にはさらにクラヴィーア練習曲集から「イタリア協奏曲ヘ長調」と「四つのデュエット」が収録されています。こちらは同じ練習曲とはいえ「インヴェンションとシンフォニア」とは随分趣きを異にしており、大そう派手な感じがいたします。

 いずれにせよ、ここで聴かれる音楽はまぎれもなくバッハです。素人の私が思い浮かべるバッハの音楽はまさにこれです。それは恐らくこれが教科書になっているからなのでしょう。バッハの全世界バッハ化計画の陰謀が見事に功を奏したということなのでしょう。

 本作品が録音されたのは1977年1月と翌年6月のことです。高橋悠治40歳頃の作品です。高橋は1960年代に欧米で活躍しており、帰国したのは1971年のことです。さらにこの頃にはアジアの抵抗歌を演奏する「水牛楽団」を結成した時期にあたります。

 高橋といえばクセナキスや電子音楽、そして水牛楽団と現代的な作品の印象が強いですが、そんな高橋がバッハの練習曲を「作曲の精神を体現する独自の配列」で弾く。彼もまた全世界バッハ化計画の犠牲者なのでした。バッハ恐るべし。

J.S.Bach : Inventions and Sinfonias / Yuji Takahashi (1978 Denon)

高橋悠治の演奏が見当たらないので、教科書らしく小学生の演奏で...。