マルタ・アルゲリッチが1979年2月にベルリンのランクヴィッツにある音楽ホールで録音したバッハのピアノ作品集です。収録されているのは、「トッカータ」、「パルティータ第2番」、「イギリス組曲第2番」の三曲で、約50分間のバッハ尽くしです。

 アルゲリッチのバッハというのは珍しい取り合わせに思いました。彼女はしばしば「イギリス組曲」をリサイタルの演目にしていたそうですが、それでもこの作品が発表された時にはファンの間では驚きが広がったといいますから、そう感じたのは私だけではないのでしょう。

 本作品が録音された1979年という年は、バッハの鍵盤曲といえばこの人、グレン・グールドがそのほとんどを録音し終えた年に当たるそうです。2年後に網羅することになるわけですが、ほぼグールドのバッハ解釈が確立したと言える年ということです。

 メーカー資料を引いてきますと、「グールドは、19世紀的ロマンティシズムには背を向け、ペダルを控えめにし、ポリフォニックな側面をクローズアップする独自の手法でその点に折り合いをつけ、ピアノによる20世紀のバッハ演奏の一つのスタンダードを作り上げました」。

 ところが、ここでのアルゲリッチはそんなことには目もくれず、ごりごりとバッハを戦車のように弾いています。冒頭の「トッカータ」の一音目からかっこいいです。これまで聴いてきたバッハとは何か違います。3曲とも短調の作品なのに何というか明るい。

 3曲ともに短調の作品をわざわざ選んでいること、楽章を間髪いれずに続けて弾いていること、各部の繰り返しの選択の仕方、繰り返す場合も特に装飾を加えないことなど、アルゲリッチの個性が現れていると評されています。

 こうしたことも本作品が驚きをもって受け止められた大きな要因の一つです。私が聴いても違うということが分かるくらいですから、クラシック・ファンの皆様には衝撃的だったのでしょう。搦手からせめているわけではなく、堂々と正面突破なのがまた素晴らしい。

 そもそもアルゲリッチは本作品のほかにバッハのソロ作品を取り上げたアルバムを発表していません。彼女はバッハ作品を体系的に弾こうなどとは思っておらず、好きな曲だけを弾いていくというスタンスのようです。まことに自由なアプローチですね。

 バッハの楽曲は現代のポップスにも通じるものがあるとはよく言われるところですが、ここでのアルゲリッチのピアノはジャズのようにも聴こえます。上昇と下降を繰り返す曲の構造がどこかジャズっぽい。これでリズムに冒険があればまるでジャズではないかと思いました。

 録音に使われたホールは1928年に建造されたもので、800平米と小ぶりながら、音響効果に優れていて、小編成の音楽をじっくり聴かせる録音に向いています。そのことは本作品のピアノの音色を聴けば分かります。かなり明晰なサウンドにはまず驚かされます。

 その生々しいサウンドがまた実に現代的です。うねうねとのたくる指使いが目の前に迫ってくるようで、これが40年も前の録音だとは思えないほどです。恐るべしアルゲリッチ、珍しい取り合わせだなと軽い気持ちで聴いたら打ちのめされてしまいました。

Johann Sebastian Bach : Toccata, Partita, Englische Suite / Martha Argerich (1980 Deutsche Grammophon)