福島第一原子力発電所にも日常がある。ただそれだけのことが圧倒的なリアリティーをもって迫ってきます。「最も選別と解釈の制約を受け、人々を饒舌にさせてきた対象」であるフクイチにも当然のことながら日常がありました。驚くことは何もありませんが、ショックです。

 この作品は社会学者の開沼博が福島第一原子力発電所の構内で行ったフィールド・レコーディングのドキュメンタリーです。開沼は福島のみならず国内各地および海外各地の原子力発電所を訪れる作業を続けて10年以上になるという筋金入りの原発ウォッチャーです。

 原発は核を扱うだけに、テロ対策に神経をとがらせており、その秘匿性がかなり高いため、部外者が立ち入りできない場所も多く、さらに画像や映像を撮れるところがほとんどないといってもいいくらいの制限を課せられています。

 開沼はそういう状況の中で、「実際、私たちがテレビや新聞で見ている『いまの福島第一原発』の映像・画像は、実はいずれも極めて似通っている」と指摘しています。要するに「切り取られた現実」であり、それは「バイアスのかかっていない現実そのもの」ではありません。

 そこにサウンドが登場します。「最も現実を伝えるのは音である」という命題が突きつけられます。音は「選別と解釈と饒舌さ」を矯正するものとして立ち現われます。なお、本作品のタイトルは「共生」となっていますが、英語版では「矯正」となっています。

 この作品には全部で16の場面が登場します。それは「通勤」、「休憩」、「食堂」、「検査」などどこにでもある光景であり、アルバムにはそこでのフィールド・レコーディングがそのまま収録されています。映像のような「選別と解釈」はここでは極力排除されています。

 とはいえ、実際には選別されているでしょうし、編集もされていることでしょう。それでも作者の姿勢は十分に伝わってきます。ここには事故を起こした原発ならではという場面はほとんどありません。その意味では「ただの職場じゃないか。これは」という言葉は正しいです。

 しかし、ほんのわずかの違いが奈落を思わせるのも事実です。裂け目から深淵が覗いているように思われます。ここにある普通の音たちはタイトルに反してとても饒舌です。そもそも私たちを取り巻く音の持つ情報量たるや莫大なものがあることを再認識させられます。

 光を遮断することは可能ですけれども、音は遮断できません。無音室であっても自分の鼓動や呼吸音は消せません。私たちの目の前から隠されてきたフクイチであっても、こうしてサウンドが明らかにするものは圧倒的な現実なのでした。恐るべき音たちです。

 本作品には最後に元暴力温泉芸者のヘアスタイリスティックこと中原昌也によるリミックスがボーナスとして添えられています。こちらはもちろんフクイチのサウンドが選別され、解釈され、作者の饒舌な語りでリミックスされたものです。

 リミックスにはいかにも原発らしい暴力的なサウンドがてんこ盛りとなっており、そこまでに聴いてきたフクイチ・ドキュメンタリーのストイックな饒舌さがその対比によって際立たつ結果になっています。フィールド・レコーディングの恐ろしさを思い知りました。重要な作品です。

Correction of Selection, Interpretation, And Verbosity / Hiroshi Kainuma (2021 Letter To the Future)

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