新しいバンドにご満悦のマイルス・デイヴィスはスタジオに入るのではなく、精力的にライヴをこなします。新しいメンバーとの出会いで受けた刺激がたまらないと盛り上がっているうちはスタジオなどもどかしいということなのでしょう。

 そこで、マイルスのクインテットは市民権登録運動の慈善コンサートに出演します。1964年2月12日にニューヨークのリンカーン・センターにあるフィルハーモニック・ホールで開催されたものです。本作品はそのコンサートのライヴ・アルバムです。

 フィルハーモニック・ホールは1962年にオープンしたばかりの2700席強の客席を有するホールで、ニューヨーク・フィルがカーネギー・ホールから拠点を移してきたことで知られます。2015年からはデヴィッド・ゲフィン・ホールと名を変えて、今でも現役です。

 「その夜のオレ達の演奏は、まさに天井をぶっ飛ばしてしまいそうな勢いだった」とマイルスはこの夜のコンサートを絶賛しています。「みんなが、本当に一人残らず全員が、ものすごい演奏をした」とまで言い切っています。

 しかし「曲はほとんどがアップ・テンポだった」となると何だか話がややこしいです。というのも本作品に収録された5曲はいずれもバラード調の曲ばかりなんです。実はこのコンサートからのライヴは1年後にもう一枚出されており、そちらはアップテンポばかりとなっています。

 最初に出たのがバラード集というところに、当時のマイルス人気のありどころが分かります。やはり「カインド・オブ・ブルー」や「スケッチ・オブ・スペイン」のマイルスなんでしょうね、根底にあるのは。確かに深みのある演奏にはジャズの王道を感じます。

 収録された曲は「マイ・ファニー・ヴァレンタイン」、「オール・オブ・ユー」、「星影のステラ」、「アイ・ソート・アバウト・ユー」のスタンダードに、「カインド・オブ・ブルー」からの曲「オール・ブルース」と見事に名曲が並んでいます。

 この作品ではとりわけハービー・ハンコックのピアノが評価高いです。透明感の高いピアノ演奏はこうしたバラードにぴったりで、マイルスのロング・トーンと絡んだりするとたまりません。ジョージ・コールマンも「この夜が最高だった」とマイルスのお墨付きをもらっています。

 まだ18歳のドラマー、トニー・ウィリアムスはそこまで目立っているわけではありませんが、地味にバンドを支えるロン・カーターのベースとともに、新生カルテットを支え、「天井をぶっ飛ばしてしまいそうな」演奏をしています。

 本作品はマイルスの大傑作として人気が高い様子です。モダン・ジャズが狂騒の1950年代を経て、トニーのような次世代が出てきて、円熟期に入ったことを示す演奏ですから人気が高いのも分かります。一方、アンチにとっては格好の標的であろうとも思います。

 フィルハーモニック・ホールの観客はしばしば感極まって奇声を発します。ニューヨーク・フィルの本拠地に相応しくありませんが、それほど観客が熱狂したということの証左です。充実の演奏であると同時にここからどこに向かうのだろうかと考えさせるアルバムです。

参照:「マイルス・デイヴィス自伝」中山康樹訳(シンコー・ミュージック)

My Funny Valentine / Miles Davis (1965 Columbia)