マルタ・アルゲリッチが「ソロを弾くと聞くと、多くのファンが『ガスパールか戦争ソナタをやってくれないかな』と思うくらい『夜のガスパール』はアルゲリッチの得意曲」なんだそうです。一見すると合いそうにないですが、そんなことないんですね。

 アルゲリッチはフリードリッヒ・グルダに師事している10代の頃、怠け者だったためにグルダから挑戦を受けます。次のレッスンまでの5日間で「夜のガスパール」とシューマンの「アベッグ変奏曲」を全部仕上げてこい!挑発にのって彼女は「夜のガスパール」を仕上げました。

 そんなに難しいって知らなかったから難しくなかったそうですが、以来、「夜のガスパール」は彼女のレパートリーに入った模様です。本作品は1974年11月に録音されたもので、同じラヴェルの「ソナチネ」と「高雅で感傷的なワルツ」をカップリングした作品です。

 アルゲリッチは本作品について「妊婦のピアノね」と語り、「いちばん売れたレコードなんだけど深みがない」と酷評しています。この頃は次女となるステファニーがお腹にいた頃で、アルゲリッチにしてみればもっとうまく弾けたのにと思えたんでしょうね。

 しかし、本人が「いちばん売れた」と語る通り、本作品は名盤として人気が高い。ジャケットの服装、そして表情と「夜のガスパール」のイメージもぴったりで、アルゲリッチのカリスマ性を高めることに一役も二役も買いました。

 「夜のガスパール」は音楽史上で一番難しい曲を書きたいというラヴェルの思惑のもとに作られた曲だということです。ベルトランのゴシック的な詩にインスピレーションを得て作曲され、怪奇幻想骨董箱的な雰囲気を持った不思議な曲です。

 多彩な音に溢れた幻想的な曲ですけれども、アルゲリッチの演奏を聴いていると、鉄骨がずしずしと見えてくるようなそんなメカニカルな雰囲気がとても良いです。ラヴェルの曲がもともと持っている構造が際立っているように思いました。

 続く「ソナチネ」は一転してエレガントな曲です。この曲はラヴェルの名を一躍高めた曲だそうで、時代遅れとなっていた古典的なピアノ・ソナタにあえて挑戦するという課題を自らに課してできた曲です。「夜のガスパール」とはがらりと雰囲気が変わってこちらも素敵です。

 最後の「高雅で感傷的なワルツ」はシューベルト風スタイルで作曲するという課題の下で作曲された曲です。よほどラヴェルという人は課題が好きなんですね。ワルツではありますが、題名の通りで、優雅なダンス音楽という感じではありません。

 アルゲリッチといえばショパンという気がするのですが、そういえば彼女はデビュー・アルバムでもラヴェルの「水の戯れ」を弾いていました。挑発にのって始めた「夜のガスパール」も結局何度も録音する彼女の代表曲になりました。

 ラヴェルの解釈としては正統派ではないんだそうですが、そんなことは関係ありません。3つの曲でスタイルがまるで異なる変化自在、自由自在な演奏は数あるラヴェルのピアノ曲集の中でも頭抜けていると思います。実に感動的です。

参照:「アルゲリッチとポリーニ」本間ひろむ(光文社新書)

Maurice Ravel : Gaspard de la Nuit / Martha Argerich (1975 Deutsche Grammophon)