マイルス・デイヴィスはチャーリー・パーカーのバンドを辞めた後、「家族を養うために必要な仕事だった」ということで、ファッツ・ナヴァロの後釜としてタッド・ダメロンのバンドに参加しました。ダメロンは「大変な作・編曲家で、すばらしいピアニストでもあった」人です。

 これが1949年1月のことで、その後、オスカー・ペティフォードのバンドに一旦入ったのち、5月にダメロンと組んでパリに赴きます。目的は第一回インターナショナル・ジャズ・フェスティヴァルへの参加です。ちなみにこのフェスにはパーカーも参加しています。

 本作品は5月8日から15日までの8日間開催された同フェスでのマイルスとダメロンのクインテットの演奏を収めたアルバムです。発表されたのは1977年、マイルスがお休みしている時ですから、まさにコレクターズ・アイテム的な位置づけでの発売です。

 放送録音ですから音質はあまりよろしくありません。しかし、この録音からは戦前のジャズの雰囲気が立ち昇って来て、私は大変好きです。ラジオから流れてきたスウィング・ジャズの趣きがあります。もちろんコンボによるビバップなのですが。

 しかも司会者によるバンドの紹介も入っていますし、掛け声やら聴衆のざわめきやらいろいろと聴こえてきて楽しいフェスの気分が沸き上がります。そもそもレコード用の録音だったら、こんなに長い演奏は残されていないわけですから、放送録音万歳ですね。

 メンバーはマイルスのトランペット、ダメロンのピアノに加え、ドラムにはフェスの呼び物の一つと紹介されているケニー・クラーク、前年からパリに住んでいたというジェームス・ムーディーがテナー・サックス、ベースにはバーニー・スピーラーでクインテットです。

 ムーディーはディジー・ガレスピーのビッグ・バンドで吹いていた人ですが、このクインテットで吹くにあたっては随分緊張を強いられたようです。スピーラーは当時パリの音楽院で学んでいたそうで、しばらくしてジャズを離れ、アムステルダムのコンセルトヘボウに参加します。

 クインテットの性格をよく表しているのが後半の部分で、ダメロンのロマンチックなピアノを中心とした「エンブレイサブル・ユー」に続けて、チャーリー・パーカーの曲「オーニソロジー」でムーディーとマイルスがエネルギッシュなプレイを披露しています。

 うまい構成だと思います。ステージ全体にバラエティーに富んだ曲が配され、まだ23歳のマイルスが珍しく暴れつつも、ダメロンがしっかりと押さえるところは押さえる。なんだかとてもいい感じの演奏です。古き良きジャズの雰囲気が漂います。

 マイルスは相当にパリを気に入ったようです。ジャン・ポール・サルトルやパブロ・ピカソ、ボリス・ヴィアンなどと親交を深め、さらにシャンソン歌手ジュリエット・グレコと恋に落ちるというこれ以上ない滞在でしたから、これで気に入らなければ罰があたる。

 ケニー・クラークは「アメリカに戻るなんて馬鹿だ」とパリに残る決心をしたそうです。マイルスはアメリカに戻りますが、ずいぶん落ち込んだそうで、そこからヘロイン禍が本格化するわけですから、あまり楽しいのも考えものかもしれません。

参照:「マイルス・デイヴィス自伝」中山康樹訳(シンコー・ミュージック)

In Paris Festival International De Jazz May, 1 / Miles Davis/Tadd Dameron Quintet (1977 Columbia)