これはまた珍しい作品が再発されたものです。本作は「日本を代表する作曲家、アレンジャー、キーボード奏者である井上鑑が1984年にカセット・ブックのみで発表した幻想の音世界『カルサヴィーナ』が世界初CD化!」されたものです。

 あの頃はカセット・テープと本を組み合わせたカセット・ブックがお洒落界隈では流行っておりました。CDはまだ敷居が高かった頃です。本作品はニューアカに強かった出版社の冬樹社からリリースされていた一連のカセット・ブック・シリーズ「SEED」の一つです。

 お仲間にはムーンライダーズの「マニア・マニエラ」があると言えば、分かる人には雰囲気が分かってもらえるのではないかと思います。コンセプトは「知識を軽くポータブルにする」というものだったそうで、他にも細野晴臣、矢口博康、南佳孝の作品があります。

 難読名前の井上鑑は寺尾聡の「ルビーの指輪」の編曲を始め、さまざまなヒット曲に係わっていますから、その名前はあちらこちらで目にしていました。この作品の頃はちょうど30歳くらいで、すでにソロ・アルバムも3作ほど出しています。

 井上は本作品の企画を持ち掛けられた時に、やりたいテーマを尋ねられて、まずニジンスキーという名前が頭に浮かんだそうです。ただし、「いささかハード過ぎると感じていた」ことや、ニジンスキー個人像を描きたかったのでは無いことからカルサヴィーナとなりました。

 タマーラ・カルサヴィーナはディアギレフが設立したバレエ団「ロシア・リュス」にて中心ダンサーとして活躍した人で、ニジンスキーともパートナーを組んでいたんです。井上はその「名前の響きが何とも魅惑的であった」こともテーマ選定の理由にあげています。

 カセット・ブックのブックの方は井上の叔母にあたる矢川澄子の詩、「ニジンスキーとカルサビナ」の論考、近代ロシア舞踏についての考察からの抜粋、佐野元春との対談などが収められていたそうです。残念ながら今回は音源のみの復刻です。

 カセット・ブックの性格上、音楽の方は「突出して非商業的な空気の中で作られたものだと言えるだろう」と井上は語ります。「当時だから許されたと説明するしかないほど長時間、しかも様々な実験をAクラスのスタジオで繰り返す毎日であった」そうです。

 その言葉通りのサウンドです。この当時の技術の最高峰を尽くした繊細な音作りがなされていることがよくわかります。編成は、井上のピアノやシンセを中心に、ドラム、箏、チェロの三人が加わり、曲によってベース、ギター、ガーナの楽器ベラフォンの登場となります。

 この編成で丁寧に丁寧に音を作り上げた結果、カルサヴィーナが活躍していた20世紀初頭のフランスやロシアという、絶妙に隔たった時空が現前するように感じます。エレクトロニクスと生楽器のバランスも美しく、クラシカルでありエスニックでもある。

 当時はサブカル全盛期で、本作品のようなテーマとサウンドが愛でられていた時期です。本作品を聴くのは初めてなのですが、大そう懐かしくも感じました。踊るカルサヴィーナのジャケットのセンスも懐かしい。アンビエントとはならない饒舌な音楽です。

Karsavina / Akira Inoue (1984 冬樹社)

今回は映像なしです。悪しからず。