長いキング・クリムゾンの歴史において、前作と全く同じメンバーで発表されたアルバムはこれが初めてでした。それほどキング・クリムゾンはメンバー交代が頻繁でした。むしろ、ロバート・フリップのソロ・プロジェクトと観念した方がよほど分かりやすいです。

 ともあれ、新生キング・クリムゾンによる二作目「ビート」は、「ディシプリン」と同じくフリップ、エイドリアン・ブリュー、トニー・レヴィン、ビル・ブラッフォードの四人によって制作されました。今回はプロデュースに自身の名前はなく、レット・デイヴィース一人の名義になりました。

 「ビート」はジャック・ケルアックの「路上にて」をモチーフとしたコンセプト・アルバムでもあります。クリムゾンのアルバムはどれもこれもコンセプト・アルバム的でしたが、各楽曲のタイトルにまで波及するあからさまなコンセプト・アルバムはこれが初めてです。

 ケルアックは1950年代から60年代前半にかけてアメリカを席巻したカウンター・カルチャーであるビートニクを代表する作家です。若者文化に多大な影響を与えていて、1997年には彼へのトリビュート・アルバムが作られたこともありました。

 新生クリムゾンの詩人はエイドリアンで、彼に「路上にて」を勧めたのはフリップ御大であったそうです。いたく感銘を受けたエイドリアンは実にビートニク的な歌詞を書きました。英国でも意味が分かりにくいと言われた難解な詩です。

 分かりやすいのはむしろ各楽曲のタイトルです。最初の「ニール・アンド・ジャック・アンド・ミー」は同じくビート詩人のニール・キャシディとケルアックとエイドリアンのこと、「ザ・ハウラー」はビートの巨匠アレン・ギンスバーグの「吠える」からです。

 最もイギリス的なバンドだったキング・クリムゾンに米国のビート詩人は似合わないようにも思いますが、ソロではアメリカを活動の中心にしていたフリップですから、国境などということには囚われないのでしょう。自らを「路上にて」の主人公に同化したのかもしれません。

 本作ではエイドリアンの活躍の比重が高まりました。冒頭からいきなりニュー・ウェイブっぽいサウンドにエイドリアンのアメリカンなボーカルが絡まり、初期クリムゾンの亡霊を軽く吹き飛ばします。前作を引き継ぐポリリズム路線の素敵な曲です。

 フリップらしい日本語「悟り」を選んだ「サートリ・イン・タンジール」はアフリカンなムードをもった作品です。悟りを開いたかのようなフリップですが、実はまだこの時は36歳です。若い若い。規律の効いた音楽ですからついつい老成を聴いてしまいますが、若々しくもあるんです。

 アルバムは後半に向けて盛り上がります。最後のインストゥルメンタル「レクイエム」では、フリッパートロニクスに始まり、ダークな即興演奏の応酬が耳を奪う恐ろしい曲です。これぞキング・クリムゾンというサウンドだと思いますが、やはり巷の評判はよろしくありませんでした。

 それは一重にかつてのクリムゾンと大きく違うからでした。大名跡だけに過去のクリムゾン・サウンドに安住することも出来たでしょうが、それをあえてせずに密度の濃いアルバムを作り上げたのですから、そこをこそ高く評価すべきです。それこそがキング・クリムゾンですから。

Beat / King Crimson (1982 EG)