アストラッド・ジルベルトはジョアン・ジルベルトの妻として、かの有名なアルバム「ゲッツ/ジルベルト」にて大ヒットすることになる「イパネマの娘」を歌ってこの上ないレコード・デビューを果たしました。それまでは素人だったといいますから面白いものです。

 彼女自身はイパネマの娘ではありませんけれども、この曲が1963年に大ヒットしたことによって彼女の歌手としての躍進が始まりました。1965年にはデビュー・アルバム「おいしい水」を発表すると、間髪を入れずに本作「いそしぎ」が発表されました。

 「イパネマの娘」の大ヒットをもたらしたアメリカのプロデューサー、クリード・テイラーは積極的にボサノヴァをアメリカ市場に紹介します。ボサノヴァを始めとするブラジル音楽の米国への浸透にテイラーの果たした役割は極めて大きいです。

 本作品ももちろんテイラーのプロデュース作品です。彼はアメリカのスタンダード曲とブラジルのすぐれた楽曲を取り合わせることで、アルバムの受け入れやすさを格段に増す作戦に出ます。この作戦は見事に成功し、本作の大ヒットにつながりました。

 選ばれているのは、米国スタンダードからは「フライ・ミー・トゥ・ザ・ムーン」、タイトル曲となっている映画「いそしぎ」の主題歌、フランク・シナトラがヒットさせた「デイ・バイ・デイ」、ミュージカル曲「フー・キャン・アイ・ターン・トゥ?」などお馴染みの曲ばかりです。

 一方、ブラジルからは「アルアンダ」や「ノン・ストップ・トゥ・ブラジル」、「オ・ガンソ」、「悲しみよ、さようなら」などのボサノヴァ曲が選ばれています。この選曲の妙がまず素晴らしいです。両者が混じり合ってまるで違和感がない。

 それにはアレンジャーの存在も大きいです。ドン・セベスキーにクラウス・オガーマンというアメリカのジャズ界で定評のあるアレンジャーに加えて、ブラジルからアントニオ・カルロス・ジョビンとの仕事で知られるジョアン・ドナートの三人がアレンジを行っています。

 この絶妙な取り合わせで、アストラッド・ジルベルトのボーカルの魅力を十二分に引き出し、異国の音楽をアメリカに根付かせる大きな仕事を成し遂げました。日本にとっても受け入れやすいボサノヴァの定義のような作品と受け止められたはずです。

 アストラッドのボーカルは「煙の中からかろうじて聞こえてくるぐらいの小さく内気な声」とタイム誌に評され、「彼女のか細くかすれた声・・・(彼女の)おびえたように見開いた茶色の目・・・(彼女の)いとおしいほどの純真さ」とニューズウィークに書かれました。

 押しつけがましさが一切ない、純真で素朴な彼女の歌声は、シンプルに聴こえる計算されたアレンジの演奏とともに喧騒の60年代に清涼剤を提供したのでした。この清涼剤は今でも有効で、心がざわつく夏にはなくてはならないサウンドです。

 一方、本家ブラジルでは軍事独裁政権が誕生したことで、より主張の激しいサウンドが求められるようになったため、平和なボサノヴァはすっかり下火になってしまいます。彼女にとって、アメリカでの活躍は絶妙のタイミングでもあったわけです。

The Shadow of Your Smile / Astrud Gilberto (1965 Verve)