これは本当に恐ろしい作品です。こんなアルバムがあってもよいのでしょうか。アーティストの世界は非情なものです。もとよりショウビズ界というのは血も涙もない。普通の神経ではやっていけない世界だと噂では聞いていましたが、ここまでとは。

 マーヴィン・ゲイは「レッツ・ゲット・イット・オン」の大ヒット以来、3年ほどの間、のちに妻となる若い女性にうつつを抜かし、ほとんどレコーディング作業をしていませんでした。この時、マーヴィンには妻がおり、その妻をほったらかしての狼藉です。

 ほったらかされた妻がモータウンの社長ベリー・ゴーディの妹ですからややこしい。大スターだけにくびにもできないので、とにかく早くレコードを作って金を稼げとマーヴィンに強く迫ります。そうして出来上がったのがこのアルバムです。これだけならゴーディが可哀想。

 しかし、ゴーディが白羽の矢を立てたのが、すでにレコーディングを終えていたレオン・ウェアの「アイ・ウォント・ユー」でした。レオンはすでにマイケル・ジャクソンに提供した「ボクはキミのマスコット」で大ヒットをとばし、ソロ・アルバムも出していたミュージシャンです。

 この作品をマーヴィンが歌ったらヒットすると踏んだゴーディは、レオンにこの音源を譲らせます。マーヴィンも大いに気に入ったようで、それは良かったですが、レオンの立場はどうなる。作曲とプロデュースのクレジットをもらったからといってそれで良いのでしょうか。

 本当にそんなことがあっていいんでしょうか。バンド演奏をスタジオ・ミュージシャンの演奏に差し替えさせられたなんて話はよく聞きますから、ショウビズ界ではよくある話なのでしょうか。誰も騒がないところがさらに恐ろしいです。

 始末に悪いことに、この作品は傑作です。「魂の愛を歌うマーヴィン・ゲイを生々しくとらえたマスター・ピース」に違いありません。その充実ぶりから、「ホワッツ・ゴーイン・オン」から続く三部作の完結編とも言える作品に仕上がっています。

 特にマーヴィンのファルセット・ボーカルが素晴らしすぎます。ことボーカルに関して言えば、前2作の良いところを合わせたような充実ぶりです。しっとりとした湿り気を湛えた歌声が縦横無尽に展開していて、声を追っているだけで幸せになります。

 本作でのレオンの作曲パートナーはダイアナ・ロスの弟T・ボーイ・ロスで、彼はこの作品で売り込みを図ったそうで、それは成功しました。彼は後に「アイ・ウォント・ユー」を歌いますが、泉山真奈美さんは「『聴かなければ良かった』とさえ思った」とライナーに書いています。

 本作はコンセプト・アルバムではありませんが、タイトル曲は3回出てきますし、全体に統一感ある仕上がりになっています。演奏も充実しており、私は実は前2作より好きなんですが、前述した経緯から、どうもマーヴィンの作品としては分が悪いのが残念です。

 なお、「ボクはキミのマスコット」はここでは「愛する者たちへ」の邦題で収録されています。この曲などいいアクセントになっていて、全体の進行をスムーズにしています。何とも細やかな隅々まで神経の行き届いた素晴らしいアルバムなんですが...。

I Want You / Marvin Gaye (1976 Tamla)