タイトルとなっている「オルフェ」はギリシャ神話の吟遊詩人オルフェウスのことです。彼は、妻エウリュディケーを取り戻すために冥府入りしますが、振り返るなという冥府の王ハーデスの命に背いて結局妻を失ってしまいます。

 本作品で歌われているのは、ローマの詩人オヴィディウスの「変身譚」によるオルフェウスのテキストです。モーリス・ブランショによれば、このお話は芸術は罪を通して創造されるということを示しているのだということになります。

 ブックレットにはオヴィディウスの言葉「形態が新たな実体に変化していくことを語ろうと思う」が掲載されています。これがこのアルバムの大きなテーマであることは間違いありませんが、当初からそれが意識されていたわけではありません。

 ヨハン・ヨハンソンは、パンク・ロックからエレクトロニカ、映画音楽からポスト・クラシカルまで幅広い音楽で人々を魅了するアイスランドの音楽家です。本人は安易なネーミングだと嫌っていますが、本作品はポスト・クラシカルと紹介するのが一番分かりやすいです。

 この作品の制作に取り掛かったのは2009年のことです。当時、まずシンプルな対位法によるテーマをいくつも作り出しました。そうして、その後、何年もかけて少しずつそのテーマを変形したり再構築したりしていきます。オリジナルはやがて奥の方に見えなくなっていきます。

 当初、何かのテーマがあったわけではなく、音楽の方が形になることを待っていたのだとヨハンソンは語っています。このプロセスがまさに「変身譚」そのものです。形がやがて新たな実体となっていく。音楽が自らを顕現してくるわけです。

 長くても6分程度の曲が全部で15曲。時間をかけて少しずつ作り上げたということではなく、各楽曲は当初から存在し、それ自体が変身しているのだということが分かります。まるで粘土細工のように練りに練り上げられた作品です。

 ヨハンソンのピアノとオルガンに加えて弦楽四重奏を中心としたサウンドです。最後の曲のみ、英国の音楽家ポール・ヒリヤーによるシアター・オブ・ヴォイスの合唱が重なります。これが何とも美しい。天上の声とはこのことでしょうか。

 しかし、本作品の最大の特徴は乱数放送です。ジャン・コクトーのオルフェウスを題材にした映画「オルフェ」の中で主人公のジャン・マレーが車の中で憑かれたように聴き続けていたのが乱数放送。前衛的な詩のように、ランダムに数や単語が読み上げられていきます。

 スパイ向けの短波放送だと言われています。本作品ではその録音が使われます。短波ラジオのノイズとともに流れてくるその音は、背景音として微かに流れてきて、まるであの世からの通信のように聴こえます。まさにオルフェウス三昧になってきました。

 ジャケットのイメージ通りにもやーっとした中に冥界から一本のソリッドな線が貫いている、そんなサウンドです。柔らかで美しいサウンドにはうるうるしてしまいます。そんなヨハンソンですが、2018年2月、48歳の若さで急逝してしまいました。惜しいことです。合掌。

Orphée / Jóhann Jóhannsson (2016 Deutsche Grammophon)