ジョイ・ディヴィジョンのカリスマ的なボーカリスト、イアン・カーティスが自らの命を絶ったのは1980年5月18日のことでした。世間的にはシド・ヴィシャスや後のカート・コベインほどの取り上げられ方ではありませんでしたが、ニュー・ウェイブ界隈では大きな衝撃でした。

 私程度ですらそうなのですから、ましてや残されたジョイ・ディヴィジョンのメンバーにおいてをや。「突然、将来の事を考えなければいけなくなったけれど、答えは何もなかった」とその一人バーナード・サムナーは語っています。

 それでも音楽を愛していた彼らは「若かったし」とにかく続けることとします。しかし、「自分たちは何なのか、イアンのいないジョイ・ディヴィジョンなのか、それはうまくいくのか」、難問は山積みです。一月後にはステージに立った彼らの自分探しが始まりました。

 まずはボーカルを誰が担当するか。マネージャーまで試されたそうです。ドラムのスティーヴン・モリスも、ベースのピーター・フックもやってみて、最初はスティーヴンに決まったそうですが、自分のスタイルを貫けないとして、結局、バーナードがやることになりました。

 ジョイ・ディヴィジョン時代の曲をシングルとしてデビューした彼らは、キーボードにモリスのガールフレンドだったジリアン・ギルバートを加えて四人組となり、デビュー・アルバムの制作にかかります。それがこのアルバムです。

 「ニュー・オーダーやジョイ・ディヴィジョンでは自分たちが学ぶ過程を聴くことができる」とバーナードが言っています。このアルバム以上にこの言葉が当てはまるアルバムはありません。おずおずと試行錯誤を繰り返すさまが見て取れます。

 プロデュースを担当したのはジョイ・ディヴィジョン時代と同じくマーティン・ハネットです。彼はイアンの死で混乱状態にあったそうで、新たな出発には相応しくありませんでした。バーナードのボーカルやサウンド全般にイアン・カーティスの影が色濃く表れています。

 まわりの人はみんなイアンのことを考えていて、自分たちは居場所を求めて苦闘している状況でのアルバム制作は苦しかった模様です。その過程がアルバムにはっきりと表れています。後に花開くニュー・オーダー節はまだ片鱗が覗くにすぎません。

 彼らの創造性はむしろアルバム未収録のシングルを中心に発揮されました。ちょうど12インチ・シングルが流行り始めた頃で、ジョイ・ディヴィジョン後期からシングル中心の活動になってきていました。その分、アルバムでの苦悩は大きいようです。

 延々と同じフレーズを弾く人間シーケンサーと化したジリアン、水も滴るスティーヴンのドラム、丸みを帯びたフッキーのベースにこれまた拡がりのある音のバーナードのギター。ニュー・オーダーのすべては表れているのですが、まだ統合されていない。

 体温のあるエレクトロニクスとダンス・ビートのポスト・パンク的な融合もちらほらと出てきています。自分探しは次のシングルで完結します。そこに至る苦悩の過程を記録したアルバムとして、ニュー・オーダー史に名を刻むアルバムです。

Movement / New Order (1981 Factory)