デュッセルドルフ郊外にてDAFは誕生しました。正式名称は独米友好協会というキャッチーな名前ですが、一般にはDAFの方が通りがいいでしょう。いわゆるノイエ・ドイッチェ・ヴェレ、ドイツのニュー・ウェイブは彼らのデビュー作を宣伝する際に使われた名だとのことです。

 バンドはもともとユーという名前でした。デュッセルドルフ郊外でミヒャエル・ケムナーが営んでいた喫茶店にヴォルフガング・シュペルマンスと後のピロレーター、クルト・ダールケが集い、セッションに明け暮れた時の名前です。

 さらにロベルト・ゲアルとクリスロー・ハースが参加し、ここにボーカルのガビ・デルガトが加わった際に、多数決で名前が独米友好協会になりました。ちなみにその喫茶店は「グリュン・イン」と名を変え、伝説になっていきます。

 ライブもこなすようになった彼らは何とかレコードを作りたいと考えます。念願かなってスタジオ入りしてテープを作成したものの、不本意な結果となりました。まるでシュラゲール、すなわちドイツのシンプルかつキャッチーなポップソングのようになっちゃったんだそうです。

 そうなるとその責めはボーカルに向かいがちです。結果、ボーカルのガビは脱退してしまいます。後にDAFそのものとなるガビさんですから、ここは飛び出したという風に解釈されますが、メンバーからは不興をかった模様です。後に復帰するんですけれども。

 ボーカリストを欠いたDAFは解散するのではなく、とにかくレコードを作ることにします。スタジオでの失敗に懲りたため、テープ・レコーダーとニ本のマイクを買って、ウォルフガングの居間にしつらえます。そして10日間にわたり延々と即興演奏を繰り広げました。

 その結果出来上がったのは22曲にまとめられたインストゥルメンタル作品です。どんがどんがとなるドラムを中心にこの世の終わりのような即興演奏が続いていきます。同じドイツのカンの影響が強いですけれども、こちらの方がアマチュア然としていて明るいサウンドです。

 しかし、1979年時点でこんな作品を出してくれるレコード会社は見当たらず、自主制作に踏み切ることになりました。クルト・ダールケはすでにカセット・テープを販売するレーベル、ウォーニングを設立していましたから、そこからレコードを出すことにします。

 クルトは車を担保に3000マルクを銀行から引き出すことに成功し、同レーベルから初のLPレコードとしてこの作品を発表しました。ちなみにこのウォーニングは後にノイエ・ドイッチェ・ヴェレの中心となるアタ・タック・レコードとなっていきます。

 この作品はそこそこ売れたようで、クルトは3000マルクを早々に返済することができたと語っています。ドイツの若者の間にもこうした音楽が関心を集める素地は十分にあったわけです。ここからノイエ・ドイッチェ・ヴェレは始まります。

 本作はいかにも素人然としたノイズ・ロックが特徴です。何かが胎動していることがひしひしと伝わってくるところに真骨頂があります。あまり過大評価するのは何ですけれども、時代を作った名盤と言えるでしょう。

参照:「クラウト・ロック大全」小柳カヲル

Produkt / Deutsch-Amerikanischen Freundschaft (1979 Warning)