阿部薫について何か書くのはとても恐ろしい気がします。阿部はフリー・ジャズ界の尾崎豊だと言える人です。何をどのように書いたとしても、ファンの方から「お前に阿部の何が分かる」と言われそうです。何と言っても稀代のカリスマ・アーティストです。

 この作品は、阿部薫のソロ演奏を収めた代表作です。間章のプロデュースでコジマ録音から発表されました。青山タワーホールで行われたタイトルと同名のコンサートからの音源と、その2日前に行われたレコーディング・セッションからの音源を組み合わせた作品です。

 間はこの年、阿部と5年ぶりに再会します。「阿部がこの5年間自己の作業を厳しく持続し続けたこと、さらに過激で厳密な奏法を獲得していることを知って驚くと共に、ひとかたならずうたれた」間は、さっそく阿部のソロ・コンサートを企画します。

 コンサートは、20世紀フランスの作家ルイ=フェルディナン・セリーヌの大傑作から「なしくずしの死」と題されました。自伝的小説の主人公フェルディナンは、ニヒリストとか魂の巡礼者だとかいろいろ言われますけれども、要するにどうしようもないチンピラです。

 そして、間曰く、その世界は「ヒューマニズムもアンチ・ヒューマニズムもことごとくに無意味なものとして退ける力、想像も再生も否定し、優しさも滅びも同じものとして認識する覚醒と狂気の共存する力によって支配されてい」ますから、そこに間は阿部の姿を見出したのでしょう。

 しかし、間章は「なしくずし」という言葉を、体制側に個人がからめとられていく様を表現する際によく使っています。音楽界もまさに管理社会に組み込まれていく現実に直面しており、阿部のような「ことごとくの緩慢さを断ち切る音楽の破壊者」は極めて少数派です。

 阿部は、演奏を「口から血を流しながらやった」り、「演奏しながら絶息して昏倒し」たり、「顔中に死紋を浮かび上がらせながら」演奏したりと、壮絶な風景を現前させたそうです。ここでのアルトとソプラノ・サックスのソロにもそのような風景がちらりと顔を見せています。

 ジャズが「未来を先取りする形で個の死から世界の終末を切りとるべき作業」であるとするならば、阿部の演奏こそはまさに「終末を自らの終末論的構造で永劫のものとする」ジャズの典型であることでしょう。

 とにかく物凄い演奏です。「あらゆるエンターテインメントを追放しさって」おり、「演奏への演奏、即興への即興」と間が言う通り、他になにもなく、ただひたすら演奏が、即興があるだけです。何か自己の内側に深く深く潜りこんで、裏返しにひっくり返ったような音楽です。

 そして忘れてならないのは、阿部のサックスの音色の美しさです。救いもなく、終末にひたすら向かう壮絶な音楽ですけれども、音は見事に美しい。つっかかりつっかかりしながら音をつないでいきます。ありきたりのフレーズは一切ない厳しい演奏なのに美しい。

 聴いていると、意識と無意識との境目で、叩き落とされたり、跳ね上げられたりしながら時が過ぎていきます。まるで救いはなく、爽快感とも無縁。存在の深淵を覗き込まされるような恐ろしい音楽です。こんなジャズが日本にあったということは凄いことです。

参照:「さらに冬へ旅立つために」間章(月曜社)