ジュリアン・コープはこのアルバム発表後に来日しています。調べてみると1985年7月、日比谷野音でコンサートがありました。すでに社会人でしたから休日だったと思います。司法試験浪人中の友だちと二人で見に行きました。

 前座はルースターズで、なかなか迫力のある演奏でしたけれども、ジュリアン・コープのバンドの演奏とは雲泥の差でした。どちらがどうというのは何なのですが、ロックに対する洋楽と邦楽の違いを実感したのでした。そのことだけが強く印象に残っています。

 ジュリアン・コープのソロ二作目は前作からわずか9か月の間隔で発表されました。発表前から「昔の歌」とジュリアン自身が呼んでおり、彼のキャリアの中で最も無視されるアルバムになるだろうと考えていたというとんでもないアルバムです。

 このジャケットがすべてを物語っています。ロック史に残るインパクトのあるジャケットです。裸のジュリアンが大きな亀の甲羅を背負って、前輪のとれたトラックのおもちゃを虚ろに見つめている写真。荒地、曇天、全てがパーフェクトです。

 この写真がむしろ中身を規定したのかもしれません。実際、この写真はジュリアン自身のイメージを決めてしまい、それを克服するのに長い時間がかかったようです。かなり危ない人だと思われたのだそうです。そりゃそうです。

 ジュリアンは80年代の音楽シーンが新しいことを追い求める続けることに飽き飽きしたとして、「どんな新奇なことも拒否することにした。過去になされたことがないことには興味がなかった」と語っています。

 その言葉通り、このアルバムは当時の音楽シーンから見ても、実験的な要素はまるでありません。当時はまだ新しかったシンセの類もあまり使っておらず、徹底的に内省的でサイケデリックなフォーク・ソングと言ってもいいような楽曲が中心です。

 バンドは気心のしれた面々が集い、ジュリアンは大そうリラックスして制作に臨みました。ほとんどの曲は素っ裸で歌ったそうですから、心は晴れ晴れしていたことでしょう。しかし、彼はそのことが「レコードの虚無感に反映されている」と逆説的なことを語っています。

 前作にも参加したケイト・セント・ジョンはこの作品ではコーラングレを吹いています。これがまた牧歌的な雰囲気を醸していますし、ポップで美しいメロディーの曲も存在していて、明るいと言えば明るい。しかし、どこかがおかしい。やはりジャケット写真に戻ります。

 全体に地味なことこの上ない作品です。しかし、その地味さが、内面に深く沈潜していくような、そんな複雑な様相を湛えていて、まことに変なアルバムです。サイケデリックの真髄、迷い込んだ精神世界は何とも荒涼としています。

 それなのにライブの演奏はとてもタイトに引き締まっており、メリハリの効いたサウンドは洋楽と邦楽の間にある越えがたい壁を感じさせてくれました。それだからこそ、30年経つ今でも深く印象に残っているのだと思います。

Fried / Julian Cope (1984 Mercury)