1000人に一人のリリシストと呼ばれるラドゥ・ルプーのベートーヴェン・ソナタ集です。収められているのは「月光」「悲愴」「ワルトシュタイン」という超有名な三曲です。クラシック初心者の私にも馴染み深い曲ばかりというわけです。

 クラシックのCDを前にして、ロックやポップスが主戦場の私がまず躓くのはジャケットです。ジャケットなどどうでもよいとばかりのやっつけ仕事が多いと感じます。この作品などはわざわざロケをしているようですから、気合は十分入っている方かもしれません。

 しかし、このジャケットはどうでしょう。月光は良いとしても、ルプーさんの洋服と靴はいただけません。それに手前の岩場と海は合成であるかのような座りの悪さです。これならルプーさんがピアノを弾いている写真で良かったのではないでしょうか。

 いきなりいちゃもんを付けましたが、この作品はなかなか素晴らしいです。これまでベートーヴェンと言えばこの人と言われるバックハウスのピアノ・ソナタ集を聴いてきましたが、ルプー盤も負けていません。

 ラドゥ・ルプーはルーマニア出身のピアニストで、数々の音楽賞を受賞する栄誉に輝いた人です。千人に一人のリリシストと呼ばれたのはデビュー当時のことで、それが彼の形容詞として定着しているそうです。

 そういうわけですから、むしろシューベルトやブラームス、シューマンなどの楽曲の方が有名なようです。しかし、ベートーヴェンのピアノ曲はリリシズムに溢れているというわけではありませんが、相性が良くないというわけではありません。

 柔らかなタッチが鍵盤をなめるように這いまわっていて、とても美しいと思います。リリカルが降り注ぐというよりも、ベートーヴェンらしく、力強さも漲っていますし、柔らかいところと勇壮なところが見事に同居しています。

 デッカの録音も素晴らしくて、「月光」の出だしなどは音が小さすぎるように思えますが、全曲を聴き通すとちょうどよく計算されていることが分かります。見事にピアノの響きを捉えていて、素晴らしい。こんないい音のピアノを聴いたのは久しぶりな感じがします。

 「ワルトシュタイン」について、坂本教授は、自分がハイドンで弟子のベートーヴェンがこれを持ってきたとしたら、「きみ、これ伴奏だけじゃないか」と言うだろうと面白いことをおっしゃっています。メロディーを書き忘れたんじゃないかと。

 ベートーヴェンらしさというのはそういうところなんですね。「月光」にしても、第一楽章のアダージョはともかく、第三楽章に向けて武骨に盛り上がるところは、とても「月光」なんていうリリカルな感じではありません。

 そんなベートーヴェンの楽曲を千人に一人のリリシストが弾くわけですから面白いものです。この作品は中古で高値で取引されているようですし、ファンの多い人なんでしょうね。いかつい顔に似合わない素敵なピアニストでした。

ベートーヴェン:ピアノ・ソナタ「月光」「悲愴」「ワルトシュタイン」 / Radu Lupu (1973 Decca)