現代音楽の作品に触れたのは大学時代のことでした。阿木譲さんのロック・マガジンの影響です。現代音楽作品は普通のレコード屋さんにはありませんでしたので、池袋の西武百貨店に入っていたアール・ヴィヴァンにしばしば通ったものでした。

 そこで手に入れたのがこの作品、近藤譲さんによる「線の音楽」でした。コジマ録音による現代音楽作品群の中にあって、ひときわ輝いて見えたものです。そんな経緯もあって、私の中では、ジョン・ケージと近藤譲の二人が現代音楽の座標軸になっています。

 さらに話は続きます。私は近藤譲さんを生で見たことがあります。詳細は忘れましたが、音楽系のイベントで、近藤さんは松岡正剛さんと対談されていました。印象に残っているのは、松岡さんがいろいろと話されたことに対し、近藤さんが「それはすでにベートーヴェンがやっていることです」と何度か答えられたことでした。ベートーヴェンの偉大さをそんなところでも感じたものです。

 「線の音楽」は同名の本も出ている理論的な作品です。CDというかLPにも本人の解説が掲載されています。まず、「これは拒絶の音楽を探し求める旅の一つの道程である」とあります。「音楽を人間中心主義者の手から切り放す為のもの」です。

 音から距離をとることで、孔子の言うところの「礼」に等しい存在を保つことになるというわけです。このあたりの書きぶりが面白いです。音楽が表現を棄てると、「礼」になるというのは発見ですね。

 具体的にはどうなっているかというと、音を群として扱うのではなくて、「空間化された単音」を提示するということになります。そうして、「単音の列とという見掛の単純さ」は「極度の複雑」を秘めることになるわけです。

 「単音から出発し、音に隙間を与え、その影を観察する」こととが目論まれていて、その「影付け」が本作品の工夫の中心にあります。それは、「打鍵された音」が「多様な倍音の尾を曳く」ことだったり、アンサンブルのずれであったりします。

 楽曲は全部で5曲、いずれも近藤さんが26、7歳の頃の作品です。高橋悠治さん、アキさんなどが演奏に参加していて、使用されている楽器はピアノやハープ、フルート、ビオラ、コントラバス、などなどです。

 ピアノやハープのソロ曲もあり、7人のアンサンブルもありますが、基本は「単音の列」で出来ていて、作者の意図は貫徹しているように思えます。そうなると、仕上がりはとてもストイックな趣きをもちます。背筋の伸びた礼にかなったカッコいい作品でした。

 ただ、レコードでは雑音に紛れて微かに聞こえていた音の影が、CDでは雑音と共にカットされているのではないかと思いました。昔の印象なので、間違っているかもしれません。生で聴いてみたいですね。

 理論は今でも正直よく分からないのですが、昔はこの作品をヘビロテで聴いていました。

線の音楽 / 近藤譲 (1974 ALM)