$あれも聴きたいこれも聴きたい インドには、古典音楽から大衆音楽、それに民俗音楽まで幅広いジャンルが揃っていて、とても豊かな音楽世界が展開しています。その中で一番外国人に分かりにくいのは宗教音楽の世界です。

 今では数が少なくなったインドのCD屋さんに参りますと、売り場の2割くらいは宗教音楽が占めている印象があります。田舎のCD屋さんだと半分くらいかもしれません。音楽市場のかなりの部分を占めています。

 ここで私が宗教音楽と言っているのは、バジャンと呼ばれる聖なる歌詞をヒンズー教の神様や導師に捧げて歌う歌という程度の意味合いです。お寺や家庭で真面目に聴かれる音楽です。私の運転手も「マスター、時にはこういう本当の音楽を聴くべきだ」と言っていましたから、おそらくインド人の考える本当の音楽なんでしょう。

 ジャグジート・シンさんはインドの国民的な大歌手です。確かのど飴のコマーシャルに出ていました。奥さんのチトラ・シンさんとともにデュエットでも人気を博しましたので、そちらでご存じの方もいらっしゃるかもしれません。

 彼は、「ガザルの王様」と呼ばれます。ガザルは、インド世界のある種の詩形を指す言葉ですが、音楽の形式とも結びついています。説明が難しいので、たとえで申し上げますと、ボリウッド映画の音楽がJポップだとすると、ガザルは演歌です。ただし、80年代くらいまでの演歌、人気も十分にあった頃の演歌です。

 シンさんは、70年代からインドを代表するガザル歌手であり続け、惜しくも2011年に御年70歳でお亡くなりになりましたが、死ぬまで人気が衰えることはありませんでした。偉大な人です。

 話が錯綜しています。元に戻しましょう。このアルバムは「ガザルの王様」ジャグジート・シンさんが宗教音楽に挑戦した意欲作です。歌詞を書いているのは、「ナラヤンの僕」の別名を持つカヴィ・ナラヤン・アガルワルさんです。伝統的な詩を一部使いながらも新作です。作曲はシンさん自身、歌ももちろんシンさんです。

 歌は全8曲、出てくる神様はシヴァ、ドゥルガ、ラーマ、ハヌマーン、ガネーシャ、クリシュナなどです。ヒンズー教も八百万の神様がいらっしゃいますから、ネタが尽きることはありません。ちなみに先に挙げたナラヤンも神様です。

 ハヌマーンはラーマーヤナで有名な猿の神様、ガネーシャは頭が象の商売の神様、シヴァはその化身が大黒天、ドゥルガはシヴァの奥さん、ラーマとクリシュナは宇宙を維持するヴィシュヌ神の化身で、それぞれインドの二大叙事詩ラーマーヤナとマハーバーラタの主役です。

 各楽曲はそれぞれの神にささげる呪文というか祭詞というかマントラをサビに持つ構造で、そのマントラが曲の題名になっています。たとえば、最初の曲は「オーム・ナマ・シヴァヤ」。この文句が何回も繰り返されます。

 シンさんお得意のガザルは愛の歌が多いので艶っぽいです。しかし、ここでは、基本的なサウンドは変わらないのですが、宗教歌ということもあって、やはり背筋が伸びる音楽になっています。そこが大きく違います。マントラをお経のようにつぶやくと精神が清められていきます。

 私はさすがに宗教音楽は苦手なのですが、ガザルの王様の手になるこの作品は大好きで、よく聴いたものです。シンさんの手にかかると音楽的にも洗練されて、宗教精神は見事に現代的な装いで甦りました。

Amritanjali / Jagjit Singh (1997 Virgin)