$あれも聴きたいこれも聴きたい-八代亜紀 ♪誰も知らない素顔の八代亜紀~♪。私なら、宣伝コピーはこの名文句を使ったと思います。

 八代亜紀さんが、ジュリー・ロンドンに憧れて、クラブ歌手としてキャリアをスタートさせたなんて知りませんでした。特に本人が隠していた訳でもありませんが、演歌歌手としての彼女の印象が支配的ですから、たとえ、そんな話を聞いていたとしても、右から左にすり抜けていました。

 ここにこうして証拠を突きつけられると、さすがに耳を傾けずにはいられません。「クラブ・シンガー時代は八代亜紀の原点です。」と亜紀さんは言い切っています。

 このアルバムは、そんな八代亜紀さんの本格的ジャズ・アルバムです。収録曲は、彼女のクラブ時代の十八番となる「フライ・ミー・トゥ・ザ・ムーン」と「クライ・ミー・ア・リヴァー」を始めとするジャズ・スタンダードと流行歌が半々です。プロデュースはピチカート・ファイヴの小西康陽さんです。

 初めて聴いた時には、歌が流れた瞬間に思わず止めてあたりを見回してしまいました。誰かに聞かれるとまずい。特に妻がいるところで聴けませんね。何といいますか、英語で言えばインティメイト。日本語では懇ろですかね。とてもいけないことをしているような気になりました。

 というわけで、部屋にこもって扉を閉めて聴きました。とてもパーソナルで、親密な空気です。八代亜紀が私のためだけに耳元で歌ってくれている。聴いている姿を妻に見られるのはとても後ろめたい。そこまで濃密な空間が出来上がります。これは凄いと思います。

 再び八代亜紀さんの発言に戻りますと、「当時はクラブにいらした皆さんが私の歌で泣いてくださって、『この店に行けば八代亜紀の歌が聴ける!』と言っていただいたことでとても励まされたんです」。皆さんの気持ちが良く分かりました。客が複数いても、全員が自分のためだけに歌ってくれていると思ったことでしょう。

 このあたりはプロデューサーの思う壺にはまったようです。小西さんは、八代さんが「ご自分が知っていたナイトクラブの世界を再現したいんだということがわかってきたんです」ということで、昭和のナイトクラブ、サパークラブ、キャバレーの雰囲気を出すことを狙っています。

 アルバムは、A面がジャズ中心のサパークラブ、B面が流行歌中心のキャバレーと、コンセプトが分かれていて、前半は音数を抑えたとても懇ろなアレンジで、後半はストリングスやホーンも活躍するやや華やかな音です。

 そんなサウンドを楽しみながら八代亜紀がリラックスして歌う。それが素晴らしい。彼女曰く、「演歌はコブシを入れて、『情念』や『命』を表現しなければいけない。一方、ジャズはリズムやセッションの面白さと言うか、バックのミュージシャンのパフォーマンスを楽しみながら歌えるんですよね」ということです。

 私は、彼女の演歌も好きですが、こうしたリラックスした歌唱も好きです。これまで聴いたジャズ・シンガーの歌は、外に向かって開けていく感じがありますが、彼女の場合は、こうして内側に向かって閉じていくけれども、力が抜けているという不思議なジャズです。そこが聴きどころ。

 是非、一人で聴きましょう。

夜のアルバム / 八代亜紀 (2012)

(カッコ内の発言はCDジャーナル12年10月号から引用しました)。