あれも聴きたいこれも聴きたい-Backhaus 余暇の過ごし方を尋ねられて、「暇なときはピアノ弾いてますが」と答えたという逸話の持ち主、「鍵盤の師子王」ことヴィルヘルム・バックハウスのベートーベン・ピアノ・ソナタ集です。

 この人とは同時代に生きていたということが奇蹟のように思われます。なんたってベートーベンの直系の弟子ですよ。もちろん直接教えを受けたわけではありませんが、ベートーベンの弟子ツェルニーの弟子リスト(!!)の弟子ダルベールに師事した人です。

 それにそもそも生まれが1884年。1905年にピアノ・コンクールで優勝した時の次点はヴァルトークだといいます。すでに歴史上の人物の名前が並んでいます。同じ年の生まれだと石橋湛山がいます。微妙なところですが、要するに教科書に出てくるような人なので、同時代の空気を吸っていたということが不思議な気がします。

 また、バックハウスは早くから録音の重要性を理解していた人で、早くも1909年には最初の録音をしています。進取の気性にあふれる人だったんですね。

 それでバックハウスは、直系だけあって、ベートーベンの演奏には定評がある人だそうです。ピアノの新約聖書と呼ばれるベートーベンのピアノ・ソナタを全曲録音していまして、それが定番中の定番となっているということです。このCDは、ベートーベンのピアノ・ソナタの中でも有名な「悲愴」「月光」「ワルトシュタイン」「熱情」を収めた普及盤です。超有名曲を定番で聴く、遅れてきたクラシック入門者の特権です。

 私は姉が子どもの頃からピアノを習っていましたから、「悲愴」や「月光」などはそれこそ嫌というほど聴かされました。まあこれくらい有名な曲になると、普通に生活していて、なまなかな歌謡曲よりも耳にする回数は多いわけです。それに上乗せされた幼少期の経験ということになります。記憶に残る姉の演奏は、長い年月をかけて立派な楽譜に変換されているようです。

 バックハウスは「正統派のベートーベン弾き」で、「堅固でゆるぎない演奏」、「スケールの大きな質実剛健なスタイルの演奏」です。堂々たる演奏を聴いておりますと、ただただ呆然としてしまいます。

 坂本龍一に「レンガ職人」と言われたわき目もふらずにがんがん押してくるベートーベンの楽曲ですが、それに真正面からがっぷり四つに組んで、しなやかにさばいていく、そんな感じです。聴く前に思っていたほど、無骨な人ではなくて、そこはさすがにクラシックの人だけあって、洗練された人ではありました。

 戦前のヨーロッパのモノクロな雰囲気が濃厚に漂っていて、素直に憧れます。恐るべし、ヨーロッパ。

Beethoven: Pathetique, Moonlight, Waldstein, Appassionata / Wilhelm Backhaus (1959)