以前、noteに毒親についての読書感想を書いたのだけど、定義をずらっと並べただけだったので、今回は私の一人語りを。
私は性的虐待をされたことはないって、その時書いたけど、男親、女親に関わらず、風呂を覗く、ノックもせずにトイレのドアをあける、洗濯ものを確認するなんてのは、性的虐待の範疇かもしれないと思った。
性器の形は人それぞれだけど、あんたのは形がおかしいと言われて、とても傷ついたことがある。看護学校で学んでから普通の形状だと知り、母親のデリカシーのなさに再度呆れた。男の子だったら、あんたのチ〇ポは短くて小さいと言われるようなものかもしれない。完全な侮辱だ。
私の初潮を発見したのは母親で、朝起きたら指摘されてナプキンを差し出された。10歳。当時では初潮が早い子供だったけど、なんとなく学校で習った記憶があったので特別驚きもしなかった。よそよそしい親の態度の方が妙に感じた。
学校で配布されたらしい性教育冊子が目に付く棚に置かれていた。親から話をされたことは一切ない。それらは親にとっては面倒なことで、避けたいことだったのだろう。
しかし、思春期の子供に対してデリカシーのない言葉はぶつけるのに、きちんとした教えのない親というのは?
両親は不仲だった。父親はギャンブル依存症で子育ては全く関与しない。きちんと話した記憶もない。
それでも定年まで勤めあげた。貯金はなかったが、田舎に一軒家を建てられるくらいの退職金はあった。父親が残したものは見栄を張りまくった日本家屋と、祖父から受け継いだ田畑と山だけ。
母親はパートに出ていたので、私は鍵っ子だった。親の都合で何度も引っ越しをした。
両親の喧嘩の仲裁を強いられたこともある。八つ当たりで酷い暴力を受けたこともある。小学生の子供に「母親が実家に帰ると言っているから、祖母に電話してくれ」と父親に言われたこともある。自分が原因の喧嘩の後始末すら出来ないのかと今なら罵倒するだろうが、当時の私には抗議することは出来なかった。
酷いいじめを十年も受けていたのに一切気付かなかった親。両親に対して信頼も尊敬もなく、完全に諦めて何も話さなかった私。大人や親という存在は、もっときちんとしているものだと思っていた子供の頃。しかし思春期で覚る。それは絵空事だということに。
親はわたしのことを見てくれていない。自分の敷いた路線を進ませたいだけだ。ずっと監視されていた。日常の些細なことでも気に食わなければ嫌味を言われ、逆らえば罵倒された。子供は親の所有物だと素で言われた。子供に人権があることを知らない無知な人たちだった。
なので私は恋愛や結婚に憧れたことはなかったし、重症の人間不信になった。戦後世代の親にしてみれば、離婚は食い扶持を失うこと。妻は夫に仕える存在。それが当たり前だったようだ。食べることにだけは猛烈に執着があった。食べ物のない幼少期を過ごしてきた親世代。子供にひもじい思いだけはさせないという決意があったのだろう。
しかし、初潮後にホルモンバランスが変わり一気に太って気にする私には無頓着だった。食べろ食べろと言いながら、太ってる太ってると言い続ける。私がそれからかなり経った頃に、過食嘔吐をはじめたのは言うまでもない。
学校の同級生たちは、化粧をしたり髪を染めたり、デートの話をしたり妊娠して退学したりした。別世界に住む人のようだった。その頃の私は全世界の人間が敵だった。
精神がとても幼かった。子供だった。こころが閉じていたので、他人と関わるのが恐ろしかった。
女は結婚して子供を育てるのが当たり前だと言われても、まるで理解出来なかった。幼少期の記憶が蘇る。あれが家族というのなら、そんなものはいらないと思っていた。
自分は男性が好きなのか分からなかった。もしかしたら女性が好きなのかもと疑った時期もあった。しかし結論を言えば、私はただの人間不信だった。他人と深く関わるのが怖いのだ。いや、阻害されるだけで深く関わったことがないので、方法が分からない。だから怖い。
他人に愛情を向けられても受け取り方が分からない。根底にあるのは親に対して抱いていた感情と同じだ。
人間に対する諦め。
それはある意味正解で、ある意味不正解。人同士、完全にひとつにはなれない。完全に相手の全てを理解し受け入れることは無理だ。
その不完全さを諦めではなく、そんなもんだよねと自他への許容と許しを持って受け入れられたら。
自分こそが不完全で不誠実で、子供っぽく甘えていて、結局は一生ものの精神病になったのだし。死ぬまで持ち越していく病は、自分こそが人並みに物事ができないことの証拠だ。ただ、それで人権を否定される覚えはない。私は私の自由と楽しみを謳歌する権利があるのだから。
父親がもうすぐ死ぬと母親から電話があった。看病で病院に詰めていて家のことが何もできないと言う。完全看護なのだから任せておけばいいのにと思いつつ、休暇を取り半日かけて帰省した。個室で父親が横になっている。こういう時、耳は聞こえるらしい。しかし私は一言も声をかけなかった。
そこにいるのは一度たりともまともに話したことのない、親になり切れなかった一人の老人だった。
今でも私は父親を許していない。仏壇に参ることはないし、納骨堂に行っても参るフリだけ。母親が死んでも同じ態度だろう。
四十九日が終わったら、仏壇を処分して写真だけにすると決めている。二つ折りの写真立てを用意して、そこに二人の若い頃の写真を入れるつもりだ。私の知らない二十代の二人。それぞれの厳しい幼少期があったのだろうが、親になりきれなかった二人。
私は、自分は到底親にはなれないと覚った。まだ小学生の頃に。大人になりきれない人間に、そんな資格はないと思った。自分も他人も許せない狭量な自分に、子育てなどという大それたことが出来るはずがないと思った。そして、もう閉経した今、自分の考えは正解だったと思っている。負の連鎖を断ち切れたと思っている。
それは悲しいことだろうか。寂しいことか。一生癒えない傷を抱えていくのは、しんどい。しかしこれもまた自分が選んだことだ。
病気という不可抗力はある。そこに至るまでに救いを求めずに諦めてしまった自分の愚かさもある。
一番身近にいるのは、子供が手本とするのは、そして洗脳されるのも親という存在だ。
子供には、あなたはあなたのままでいい、あなたは尊重される存在だと、親には口に出して言って頂きたい。
そして、ハグして頭を撫でてあげてほしい。