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今日は、私のうつ病を記録しておく。今日でなくちゃいけないから。
長えし、内容はまさに鬱々としてるから、落ちてる人は読まないほうがいいとだけ、最初に言っとくよ。

(うつ病は)いったん改善しても約60%が再発しますし、2回うつ病にかかった人では70%、3回かかった人では90%と再発率は高くなります。
 米国では、うつ病にかかった人で完全に症状が消失する人は3分の2、症状が変わらないか軽くなるだけの人は3分の1であると言われています。
 入院経験のあるうつ病の人を15年間追跡調査をした英国やオーストラリアでの研究では、その後一度も再発しなかった人が2割、症状が変わらない人や自殺で命を落とす人が2割、再発を繰り返す人が残りの6割だと報告されています。「厚生労働省のhpより」

つまりうつ病は、三回も繰り返せば四度目は必ず来るってことだ。私が実例なので今更って感じでもあるな。
私に診断名がついたのは、三十六歳くらいだった。しかし病歴から、それ以前、十九、三十歳でも発病していて三度目だろうと言われた。その後、四十八歳で四度目。これは現在に繋がっている。

うつ病は脳の神経系の病気。一生のうちに一度でもうつ病になるのは、15人に1人。適切な治療(休養と薬)で治るハズの病気。ところが何度も繰り返す人が多いのもまた事実。これって広く知られているのだろうか。疑問だ。

まずこの「休養」というのが難関。公務員ならいざ知らず、少なくとも私の勤務先での病欠期間は「三か月」だった。三か月でうつ病が治るわけがないのは当然知っている。なんせ勤務していたのは、精神科病棟で、私は看護師だったからな。つまりは、もう次の人入れるから辞めてくれってことだろう。個人経営の病院なんてのは、全く余裕がないブラックなのだ。

診断書を提出して、取り敢えず三か月の休みを確保する。それだけで随分と肩の荷は下りるのだけど(なんせ、それまで16時間拘束の当直勤務が月に4回ほど入るフルタイムだし)、問題は一人暮らしってことだ。誰の手助けもない。自炊なんてかれこれ二年はしていない。(四度目の時)。

同僚の誰も気づかないのだ。私の異変に。精神科病棟でも、そんなものだ。それまでの二年間。仕事帰りに毎日同じ弁当屋で全く同じ弁当を買い、コンビニで翌朝のパンを買って帰宅する。部屋の玄関に入ると座り込み、濃い味付けの同じ弁当を食べ、そのまま一~二時間ぶっ倒れて動けず、ようやくシャワーを浴びてベッドに辿り着くと、定時退社だったというのにもう八時。

休日前の夜中はコンビニに行く。カゴいっぱいに食べやすく、そしてリバースしやすい食べ物を買う。甘いものやスナック菓子、ジュース。味なんてしない。口に詰め込む。上手く吐けるかだけを考えている。呼び水を大量に飲んでからリバースする。食べている間は、嫌な出来事を思い出さずに済む。

休日は往復タクシーで植物園に行く。一万円かかる。地下鉄と徒歩で行けるのだが、そんな余力はない。しかし園内に入ってしまえば、写真を撮りまくるのだ。イヤフォンでガンガン音楽をかけて。洋楽ポップスが多い。無理矢理テンションを上げてくれるような曲。それがないと、もう足が動かない。なにもそこまでして写真なんか撮りに行かなくてもと言われそうだ。しかし、それが自分のストレス発散方法で、存在証明だった。

陶芸教室もタクシーで行っていた。週に一度。一万円はかからないが、そこそこの出費だ。教室に行ってしまえば手は動く。ロクな作品にはならないが。
オマケのようだが、仕事に行くのもタクシーが増える。雨の日は確実。電動自転車で行ける日は減っていく。

結論として、休養に入る時に貯金なんて全くないのだ。何のために働いているのか、分かったもんじゃない。

仕事して、ストレス発散に散財して、身体が動かずにタクシーで移動する。食生活はめちゃくちゃ。血圧は上がりまくり、200以上の値を叩き出して頭痛が止まらない。過食で太る。20キロの幅で増減を繰り返す。着る服がない。買う。痩せる。また着る服がないの繰り返し。

ある日、仕事から帰って玄関でぶっ倒れたまま思った。「このままだと、うつ病以前に、心筋梗塞か脳梗塞で死ぬな」と。そして、仕事を辞めようと思ったわけだ。
身体がついて行かずに、ようやくうつ病に気付く。四度目であっても、そんなもんだ。もちろん通院治療などやっていない。

診断名がついた三度目の時は、もっと酷かった。薬物治療をはじめてからの方がゾンビ。オリンピックの夏だったのだけは覚えている。動けないのでベッドに横になったままテレビをつけっぱなしにしていた。
眠る、うとうとする、ぼーっとするの繰り返し。枕にしていたタオルケットは擦れ切れて穴が開いた。
風呂に入れない。気力と体力をとても使うからだ。入りたくて仕方がない。頭が痒くて仕方がないのだから。床は抜け落ちた髪の毛だらけだ。ホコリが溜まって、裸足で歩くと足の裏が真っ黒になる。一週間くらい自分と格闘したのちに、ようやく風呂に入る。掃除はいつしただろう。忘れたけど。

食べることも忘れていた。夜中すぎになって一日食べてなかったことに気付く。この時も近くの弁当屋とコンビニで同じものを買って食べた。選ぶ気力がないからだ。ご飯は半分だけ食べる。当然だが、短期間で一気に痩せる。身体にとってはすごい負担だったはずだ。

薬は慣れるまでがしんどい。身体が薬に慣れれば、効いてるか効いてないのか分からないくらいになる。しかし、とにかく時間がかかる。だるくて通院をサボると薬が切れる。断薬して体内の薬物濃度が下がった時の反応がまた酷い。薬をやめる時も少しずつ減らさないといけないわけだ。とにかく通院をサボっていいことはない。

三十歳の時は、すぐに転職した。まだ体力があったわけだ。十九の時は進学して学校の寮に入ったが、半年ほど記憶がない。その頃つけていた日記も半年間真っ白だった。

十八歳の春。三月十日。まさに今日。この日は私の「命日」。
現在は何回忌くらいだろうか。もう数えるのも面倒なくらいになってきた。
この日、私は自我崩壊したのだろう。心を打ち砕かれ、粉々になったのだろう。
それから随分と長い間、沈丁花の香りが大嫌いだった。この香りがしだすと、部屋のなかに逃げ込んでいた。月を見るのも嫌だった。春の嵐もまた。三月十日の夜を連想させるものが、なにもかも嫌いだった。

あの日、高校の三年間友人と思っていた二人に言われたのだ。

「あなたのこと必要としてる人なんて、この世のどこにもいないじゃないの」

十二歳の時から、その高校生活の三年間も、ずっといじめにあっていた。その私が最も言われたくない言葉を、友人は知っていたわけだ。
あなたのことなんて誰も必要としていない。
味方だと信じていた相手は、私と違って進学出来なかった。その嫉妬が引っ張り出した言葉。しかし、的確に私の急所を突いていた。とどめを刺された。

それから半年、記憶がない。うつ病だったのだろう。
とどめを刺した元友人は、さっさと結婚を決めるとこう連絡してきたものだ。「結婚祝いは珈琲メーカーかホットプレートにして」。当たり前のように。誇らし気に。私に勝ちたかったのだろう。自分の言った言葉など、きれいさっぱりと忘れて。

私は泣いても良かったし、怒っても良かったのだと今なら思う。
怒りの感情というものは、出す機会を逃すと、底に溜まったままフツフツと煮え続けるのだから。
小中高とクラス中でいじめられてきたが、あの時も怒って良かったのだ。怒りを爆発させて示す必要があったはず。しかし私は怒れなかった。感情を殺して自分の殻に閉じこもるしかなかった。

その後、進学した学校でもいじめられた。教師からもいじめられた。うつ病を怠慢と思われたのだろう。一年遅れで国家資格を取って、就職した。
まだ体力のある年代だ。最初の職場では十二年仕事をした。合計で二十五年近く。

死の谷を背にして、なんでまた医療職などやっていたのだろう。自分のほうが余程ヘトヘトだったのに。他に選べる仕事がなかった。実家には理解がなかった。自分の居場所がなかった。
私はずっと、自分の居場所を探して来た。必要としてくれる誰かを探していた。しかし、心の奥では思っているのだろう。他人なんて信じられない。また裏切られる、と。

二十代の半ばに『ONE』を書いていた。生きるよすがだった。自分が作者で神なのだ。信じられるものを創作できる。理想を詰め込める。
逆を言えば、逃げ場だったのだろう。現実の中にジェイはいなかった。

教師や先生と呼ばれる人種は大嫌いだったが、陶芸の師匠だけは違っていた。信じられる人だった。難病であっという間に亡くなってしまったけど。でも、信じていい他人がいるんだってことを教えてくれた。
三十代半ばだよ。陶芸始めたのって。それまで信じられる他人がいなかったって、ヤバイね。

今は寛解期。小さな波を繰り返している。子供の頃は元気だったと思う。思春期から病気だった。もう半世紀以上も生きてる。こんなに生きる予定じゃなかったのに。でも、今が一番いい。

家の近くに沈丁花はない。椿の香りがする。たぶん月は出ているだろう。
何度目かの命日を、私は祝う。
取り敢えずここまで死ななかったんだ。もうちょっと生きてみようか、と。