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100日連続投稿達成したので、今月は休もうと思ってたのだけど(笑)
ちょっと気になることがあったので、またAIに質問してみた。
内容はタイトル通り。

なんでしょう。あの中途半端な関係の人と、いきなり二人きりになった時の気まずさ。とはいえAI曰く、約83.6%の人に起こる現象だそうです。

 

三人以上でいるのは平気なのに、二人きりになった途端気まずい空気になる現象のことをなんといいますか。


この現象には特定の名前があるわけではありませんが、多くの人が経験する一般的な社会的状況です。
大人数でいるときはリラックスしているものの、二人きりになると突然気まずく感じることはよくあります。
これは、共通の話題が少ない、相手との関係がそれほど親密でない、または会話のキャッチボールが成立しないなど、さまざまな理由によるものです。

また、対人恐怖症や社会不安が原因で、大人数の中では自分の不安が他人に紛れて目立たないが、二人きりになるとその不安が顕著になることもあります。
このような状況は、特に中途半端な関係の相手と二人きりになったときに感じることが多いようです。実際に、ある調査では、中途半端な関係の人と二人きりになると気まずく感じると答えた人が全体の約83.6%に上ると報告されています。

このような気まずさを解消するためには、相手の好きな話題を事前に知っておく、天気の話など誰でも参加しやすい話題を提供する、自分と相手の関係を正しく認識し適切な距離感を見極めるなどの方法があります。また、自分自身のコミュニケーションスタイルを理解し、改善することも有効です。

***あら、名称がないのですね。80%以上の人が感じていることなのに。何かいい呼び名はないかな。
わりと親しい関係の人と話している最中に、ふいに言葉が同時に途切れて静寂が訪れることを「天使が通った」と言いますが、悪魔が通るほどの不幸ではなさそうなので「金縛り症候群」とでも呼んでおきましょうか(冗談です・笑)

***とはいえ病気ではないし、一般的な社会現象と言われればそうか。
人数が多いと気配を消して空気になれますしね。社交的ではないわたしからすると楽なほうに流れたいので、八割の人が感じたことのある現象というのは、心強いです(いいのか、それで・笑)

***ということで、ちょっと視点を変えて質問を続けてみます。

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学校で隣の席の人と机をくっつけなければならなかったり、授業で二人組にさせられることが多いのは何故でしょう。


学校で隣の席の人と机をくっつけたり、授業で二人組にさせられることが多いのは、生徒同士のコミュニケーションと協力を促進するためです。
このような活動は、社会性の発達チームワークのスキル、そして相互理解を深めることを目的としています。
また、二人組での作業は、生徒がお互いに教え合い、学習内容をより深く理解する機会を提供します。

教育の観点からは、アクティブラーニングの一環として、生徒が受動的な聞き手ではなく、能動的な参加者となることを奨励しています。生徒が積極的に参加し、自分の考えを表現し、他の人の意見を聞くことで、学習効果が高まるとされています。

さらに、二人組の活動は、生徒が自分の意見を述べたり、他人と協力したりすることに慣れる良い機会となります。これは、将来的に社会に出たときに必要とされる重要なスキルです。
したがって、学校でのこのような活動は、学習だけでなく、生徒の社会的スキルの発達にも寄与しているのです。

***最近の学校事情は50代には分かりませんが(汗)机をくっつけさせたり、授業で二人組を作らせられたり。これ、ものすごく苦痛でした。
なるほど。あれは「訓練」だったわけですね。ん、「鍛錬」か? (笑)
確かにいつも空気でいたらコミュニケーションスキルは鍛えられないわけです。学校というのは知識の習得に留まらず、集団生活を通じて社会生活を良好に送れるスキルを身に着ける場、ということなのでしょう。
なるほど。今さら知った学校の怪談教育方針です。

***でもなあ。と、ひとつイジワルな質問を追加。

 

とはいえ80%以上の人が二人組を苦痛に感じているわけですよね。矛盾を感じませんか。


確かに、多くの人が二人組での活動を苦痛に感じるというデータは、学校で推奨されるペアワークの目的と一見矛盾しているように思えるかもしれません。しかし、ここで重要なのは、教育の目的と生徒の感情的な反応との間には必ずしも直接的な関係があるわけではないという点です。

学校でのペアワークやグループワークは、生徒に協力して問題を解決する方法を学ばせるためのものであり、社会的スキルやコミュニケーション能力の向上を目指しています。一方で、生徒が二人組での活動を苦痛に感じるのは、個々の社会的快適さや不安のレベルによるものであり、これは個人差が大きいです。

教育者は、生徒が感じる不快感や不安を理解し、それに対処する方法を見つけることが求められます。例えば、生徒がペアワークに慣れるように段階的に導入する、生徒同士の相性を考慮してペアを組む、活動の目的を明確にする、フィードバックを積極的に取り入れるなどの工夫が考えられます。

また、二人組での活動が苦手な生徒には、他の形式の協力学習や個別学習の機会を提供することも有効です。教育の目的は、全ての生徒が快適に学べる環境を作ることにあります。したがって、教育者は生徒の多様性を認識し、それぞれのニーズに合わせた指導を行うことが重要です。

***個人差が大きい。なので苦手な人には個別対応をする。ほほお。
「教育の目的は、全ての生徒が快適に学べる環境を作ることにあります」
「教育の目的は、全ての生徒が快適に学べる環境を作ることにあります」

はい? ('ω')

大人の事情かな? 努力目標の書き間違いでしょうね(棒)

***あ。ここからは、思春期の10年間ずっとクラス中からいじめられていた者の戯言ですので、敏感な方は次の画像まで読み飛ばして下さい。

少なくとも私はこの訓練がとても苦痛でした。教師は見て見ぬふり。いじめを容認し、快適などと言える環境では到底ありませんでした。

だからこそ、中途半端な関係の人と二人きりになると気まずい気分になるのかな? と疑問に思ったのです。ところが八割の人が感じる普通のことだという。そして子供の頃から、コミュニケーションスキルを磨く訓練をしているという。

いじめの有無に関係なくこの現象が起こり、訓練の効果もないのだとしたら、この現象は集団生活をする人間につきまとう逃れられない現象であり、たかだか義務教育の期間程度で矯正できる代物ではないと言えるのではないでしょうか。

訓練はやっていますよ。習得できないのは個人の問題ですよ。わたしにはどうしても、そういうアリバイ作りに見えてしまいます。結局のところ成果が出ていないのですから。もはや慣習としてやっているに過ぎないのでは? と邪推してしまいます。一度決めたことは、なかなか変えられないものですからね。

***ちなみに六人で机をくっつけて班を作るというのも(わたしの通った学校ではよく見られた光景です)苦痛で仕方がなかったので、追加質問をしたのですが、AI曰くそれも訓練だそうです。

六人という単位のなかで、リーダー、サブリーダーなどの役割をつくり、各々が責任をもってひとつの目標を達成する訓練。
二人という最低限のコミュニケーションから、六人というグループワークへのステップアップ。応用編というわけです。

ほほお。知らんかった(笑)
行動には動機が必要。何の説明もなかったことが、甚だ疑問です。
これは今だから感じる違和感でしょうか。昭和の時代では「ガキンチョには理解できんだろ」で一蹴されることだったのでしょうか。少なくとも現代の教育者には言いたいです。子供をなめんなよ。

おっと、申し訳ありません。お下品になってしまいました(いつもやろ)

***では、質問の続きを。

 

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一人のほうが気が楽と思う人が増えていると感じるのですが。


一人でいることを好む人が増えているという感覚は、現代社会の多くの人々が共有しているものです。
これは、ソーシャルメディアテクノロジーの進化により、人々が物理的に集まる必要性が減少したこと、また、個人主義の価値観が高まっていることに関連しているかもしれません。

また、一人でいる時間は、自己反省リラクゼーション趣味個人的な目標に集中するための貴重な機会を提供します。特にストレスが多い現代社会では、一人で過ごす時間が心の平穏を保つための手段となることがあります。

しかし、これは一般的な傾向であり、全ての人に当てはまるわけではありません。人は社会的な生き物であり、他人とのつながりを求める本能があります。そのため、一人でいることを好む人が増えているとしても、人々が社会的なつながりを完全に放棄しているわけではないでしょう。

社会的なつながりの重要性、個人の内面的な平和、そして現代社会の影響については、心理学や社会学の分野で広く研究されています。これらの研究は、人々がどのようにしてバランスを取り、幸福を感じるかを理解するのに役立っています。

***そうね。確かに人は群れる生き物。群れないと生存して来れなかったのだしね。
一人の時間と空間が欲しい。そして、この気持ちには個人差がある。あまりに温度差があると関係性は崩れ、よいバランスが取れれば関係性は続く。
それでいいと思いますし、無理をすると余計な病気を抱え込むことにもなりかねないので、「適度」を見極めることが大事でしょう。

しかし、わたしの「なぜ?」は続きます。
心理学を勉強したのも、その流れからでした。ただ、ああいったお勉強は、いったん分かった気になって、その方程式で人の心理にレッテルを貼ってしまうという弊害が生まれます。極端な部分があって、どうしても今の自分の気持ちにフィットしない事柄が出てくる。

頭でっかちになっただけで、結局のところ何も解決しませんでした。何も残らなかった。いや、わたしの垂らした釣り針に引っかからなかっただけでしょう。ヒントはあったのに、私に気づける受け皿がなかったと言える。

いまなら、何も残らなかった理由は分かります。あの時わたしは、双極性障害Ⅱ型のうつ期真っ盛り。仕事の合間に這うようにして答えを探していたのですから。自分の病状に自覚が持てない時期でした。必要なのは、ただただ休養だったのです。

仕事をやめて、泥のように眠るだけの期間が終わり、家の外にでる気分になりました。近所の畑の畔に畑仕事をひと段落させたおばあさんが座っていました。満足気な顔でにこにこして、ゆっくりお茶を飲んでいる。

回り道をした分、わたしの釣り糸には針が増えていたのでしょう。「あ、これだ」と思いました。わたしの探していたものは、自分や他人に張り付けるレッテルではなく、「目に見える幸せの形」「地に足のついた等身大の幸せの形」だったのだと気づいたのです。

その時の感覚、とり散らかっていたものが集約した感じ、正鵠を射る感じ。
うまく表現できません。ただ「あ、これだ」と腑に落ちた。そして憑き物が落ちたような気持ちになった。答えは、ほんの身近にあったんです。モーリス・メーテルリンクの「青い鳥」同様に。

わたしはこれからも子供のように「なぜ?」と問い続けるでしょう。
小説や学問、AIに。しかし最も説得力があるのは、人の生き様だと思うようになりました。
行動を見れば、その人が分かる。分かっている人は、言葉もなく既に行動している。

今では、そう思っています。