電話をする。大好きな声。声の音色の中に聴きだすことができる。めまいがするような甘い感覚。
音が感覚をつれて、耳にやってくる。その感覚がからだに宿る。
記憶。記憶もまた、音にのってやってくる。
人間が昔に聴いた音が再び現れると、記憶が甦る。
音は、過去と現在を結びつける糸となる。
それはちょうど、詩のようなものだ。
詩の喚起力は、原初の記憶をよびさます。
過去に聴いた音によって喚起される何か。
声も。言葉にも。メロディラインもそう。あらゆる時を重ねる。
言葉や音、そのかたちには記憶を呼び覚ます糸である時空間と繋がっている。
虫の声。年を重ねるごとに、蓄積される時の記憶。
あらゆる美しい記憶と一体になる。
すると、現実は層をなして分厚く感じることができる。
時を得るとはそうゆうことだろう。時を超える。音色にはそうゆう力がある。
原初に結びつく音。記憶の奥深く、体に刻まれた音。
『バリでは、ずっと「虚」の世界について考えていた。』
今見えている認識の世界とは異なったもうひとつまたひとつ重層的に重なる世界。今思い返せば、それは、神さまのことについて考えていたのだと思う。神さまとは何だろうか。自分とはなにか、考えていた。バリにいる間、ずっと気になっていた言葉がある。
「自分なんてない」
なぜか、この言葉が思考から離れなかった。まるで、呪文のように頭のなかでその言葉を反芻し、意味のつかめない言葉に何か世界の抜け穴があるんじゃないかと予感していた。
その言葉は、深い森の中にいる自分の存在を暗示するかのようだった。
バリの植物たちが放つ湿り気を多く含んだ息吹が、ぼくの体の中を巡る。そこから発するコトバを。
バリで知り合った友達からは、消えてなくなりそう、死ぬんじゃないかと言われたこともある。
でも、自分ではそんなことは少しも思っていなかった。自分から進んで死ぬなんてありえない。自然の中に融け込んでいって、そのまま命まで失ってしまいそうに見えたのだろうか。
そんな考えかたではないと思った。確かに自分を無効化するという点においては、死の世界と同じかもしれない。自我という存在を無効化することを恐れるなら、死を恐れることになる。でも自我を無効化することで開かれてくる世界がある。そのことがひどく大切なことのように思えた。自我がなくなれば、自分が世界に構成されていることに気づく。
自分は世界の一部だ。自分が知っている言葉はすべてだれかが教えてくれたもの。ジョンケージは、”I have nothing to say and I am saying it”と言っている。ぼくはこんな風にこのコトバをとらえていた
「言葉は自分のものじゃない、私はそう言う。」
食べ物が体の外側から体の内側へと入り込んでくる。体が生き物をとりこんで生きている。水を飲んで体ができている。だとすると、水は自分自身だ。大切にしよう。海や川、雨は自分自身だ。大切にしよう。空気も自分自身だ。大切にしよう。自分の体は、食べ物でできている。肉体をまとった存在。精霊につつまれている。認識の中にしか自分(自我)はいない。
「自分なんてない」
主体性がなくなってしまったのではない。魂をもつ主体として、まわりにあるモノに宿る魂と、それに包まれた魂として、自分をとらえるのだ。何かを操作するのではなく、何かに包まれている感覚だ。
死への通路が開かれると、生がうねるように躍動し始める。死を意識すると生きている意味を知る。
じゃあ自分というものを表すとしたら何だろうと考えた。
「俺は自然だ」
自然の一部としての自分。すべてが関係しあって、すべてが複雑に影響しあい、結び合わされている。自然は、制御、支配、制限しようとしてもできない。記憶の中で違う時間がむすびつくように。夢の中で、ふたつのイメージが合わさり、複合するように。
今見えている認識の世界とは異なったもうひとつまたひとつ重層的に重なる世界。今思い返せば、それは、神さまのことについて考えていたのだと思う。神さまとは何だろうか。自分とはなにか、考えていた。バリにいる間、ずっと気になっていた言葉がある。
「自分なんてない」
なぜか、この言葉が思考から離れなかった。まるで、呪文のように頭のなかでその言葉を反芻し、意味のつかめない言葉に何か世界の抜け穴があるんじゃないかと予感していた。
その言葉は、深い森の中にいる自分の存在を暗示するかのようだった。
バリの植物たちが放つ湿り気を多く含んだ息吹が、ぼくの体の中を巡る。そこから発するコトバを。
バリで知り合った友達からは、消えてなくなりそう、死ぬんじゃないかと言われたこともある。
でも、自分ではそんなことは少しも思っていなかった。自分から進んで死ぬなんてありえない。自然の中に融け込んでいって、そのまま命まで失ってしまいそうに見えたのだろうか。
そんな考えかたではないと思った。確かに自分を無効化するという点においては、死の世界と同じかもしれない。自我という存在を無効化することを恐れるなら、死を恐れることになる。でも自我を無効化することで開かれてくる世界がある。そのことがひどく大切なことのように思えた。自我がなくなれば、自分が世界に構成されていることに気づく。
自分は世界の一部だ。自分が知っている言葉はすべてだれかが教えてくれたもの。ジョンケージは、”I have nothing to say and I am saying it”と言っている。ぼくはこんな風にこのコトバをとらえていた
「言葉は自分のものじゃない、私はそう言う。」
食べ物が体の外側から体の内側へと入り込んでくる。体が生き物をとりこんで生きている。水を飲んで体ができている。だとすると、水は自分自身だ。大切にしよう。海や川、雨は自分自身だ。大切にしよう。空気も自分自身だ。大切にしよう。自分の体は、食べ物でできている。肉体をまとった存在。精霊につつまれている。認識の中にしか自分(自我)はいない。
「自分なんてない」
主体性がなくなってしまったのではない。魂をもつ主体として、まわりにあるモノに宿る魂と、それに包まれた魂として、自分をとらえるのだ。何かを操作するのではなく、何かに包まれている感覚だ。
死への通路が開かれると、生がうねるように躍動し始める。死を意識すると生きている意味を知る。
じゃあ自分というものを表すとしたら何だろうと考えた。
「俺は自然だ」
自然の一部としての自分。すべてが関係しあって、すべてが複雑に影響しあい、結び合わされている。自然は、制御、支配、制限しようとしてもできない。記憶の中で違う時間がむすびつくように。夢の中で、ふたつのイメージが合わさり、複合するように。
昨日、近所にある熱帯魚を売っているペットショップに行った。
むせかえるようなにおいとなま暖かい空気。暗い店内に蛍光灯で照らし出された魚たち。
水槽の中では、熱帯の水中に生きていた色とりどりの魚たちが泳ぐ。
すばしっこい魚。大きな古代魚のような魚。砂の中に頭を突っ込んで泳ぐ魚。
小さな生き物たちが、ひしめくようにそこにいた。
目をこらす。細かなうろこ。光を反射する体。くねらすようにして水の中をゆっくりと進む。
ベタという魚だった。ゆっくりとゆっくりと泳ぐ姿は、優雅でエレガントだった。
突然、ベタが鰭を大きく広げた。きれいだった。その青いからだに目が吸い込まれっていった。

夢で、ぼくは海にいた。
海ぞいに建った家のベランダで、海を見ていた。
海がざわつき始めた。
白い大きな大きな魚が、ゆっくりと深い海からでてきた。25Mプールほどありそうな、
大きな体が水の中で、ゆっくりと泳いでいる。
他の魚たちもはっきり見えた。
水が透き通ってきれいだったからだ。
海の水位があがってきた。
ぼくのいるベランダまで上がってきた。
身の危険を感じ、近くにいる人に非難するように呼びかけた。
一人、部屋で水が入ってくるのを見ていた。
部屋から入ってくる水は、その姿を変え、透明で水が渦巻く骸骨のかたちになった。
荒々しいその顔は、ぼくに襲いかかってくるようだ。
ぼくは、ただ、その透明の生を呑み込んでしまう存在をじっと見ていた。
むせかえるようなにおいとなま暖かい空気。暗い店内に蛍光灯で照らし出された魚たち。
水槽の中では、熱帯の水中に生きていた色とりどりの魚たちが泳ぐ。
すばしっこい魚。大きな古代魚のような魚。砂の中に頭を突っ込んで泳ぐ魚。
小さな生き物たちが、ひしめくようにそこにいた。
目をこらす。細かなうろこ。光を反射する体。くねらすようにして水の中をゆっくりと進む。
ベタという魚だった。ゆっくりとゆっくりと泳ぐ姿は、優雅でエレガントだった。
突然、ベタが鰭を大きく広げた。きれいだった。その青いからだに目が吸い込まれっていった。

夢で、ぼくは海にいた。
海ぞいに建った家のベランダで、海を見ていた。
海がざわつき始めた。
白い大きな大きな魚が、ゆっくりと深い海からでてきた。25Mプールほどありそうな、
大きな体が水の中で、ゆっくりと泳いでいる。
他の魚たちもはっきり見えた。
水が透き通ってきれいだったからだ。
海の水位があがってきた。
ぼくのいるベランダまで上がってきた。
身の危険を感じ、近くにいる人に非難するように呼びかけた。
一人、部屋で水が入ってくるのを見ていた。
部屋から入ってくる水は、その姿を変え、透明で水が渦巻く骸骨のかたちになった。
荒々しいその顔は、ぼくに襲いかかってくるようだ。
ぼくは、ただ、その透明の生を呑み込んでしまう存在をじっと見ていた。
