邪魔なのでどいてください…
僕は何度も心の中でそう言いました。
気が散って気が散って
歌もドラマも これっぽっちも入ってこないのです。
ただでさえ、オケが爆音すぎて
飛んでくる歌がとぎれとぎれなのに
あっちへ行き こっちへ行き
うろうろうろうろ…
大人になったピーカートン・ジュニアが
物語の頭から最後でずっと
蝶々さんにまとわりついている。
うるさい……。ただただ邪魔である。
型と動線ありきの集大成のような演出、
それに踊らされている滑稽な芝居。
とってつけた、型にはまった猿芝居をしながら
動線に理由づけもないまま立ち回ることしかできないのなら
舞台袖付近に立ったまま動かないでほしい。
というか、舞台に出ないでほしい。
なるほど、
成人したとはいえ、子供が自分の両親の初夜を見ている
というのは なかなかユニークな演出です。
我が子にそれを赤裸々に語り、それを妄想する子
というのは随分と生々しい図である。
例えばそんなふうに、蝶々さんの半生が
赤裸々に記された、手紙らしき物。
ピーカートンが死の床で
スズキを介し
30歳にもなっているピーカートン・ジュニアに(今更)渡したものだ。
それを読むピーカートン・ジュニアの追体験の世界を、最初から最後までお客は見せられている。
というのがこの舞台の設定。
その手紙はこんな風にはじまる。
「息子へ
私が死ぬ前にお前を生んだ(⇐” 産んだ ” の間違いだと思う) 母親とのことを伝える
私はいつも お前の母親のことを想っていた。
あれは30年前…」
いーーーや ちょっと待とうか。
結婚前も結婚したのちも、ピーカートンは蝶々さんのもとにはいなかったはずでは??
蝶々さんは15歳の春にピーカートンと結婚し、
その3年後に自死している。
その3年の間、ピーカートンは蝶々さんとは過ごしていない。
その事実を踏まえると、ピーカートンにその空白の3年間のことはわかるはずもなく
綴ることができるのは いつも蝶々さんの隣にいたスズキのみ。
ピーカートン・ジュニアへ渡された手紙は
スズキによって書かれたということになりますね。
いやいや、待て待て。
後に蝶々さんが客の男たちに手篭めにされることを妄想するシーンが出てくるではないか。
これは流石に、スズキが蝶々さんの頭の中を覗くわけにはいかないので、そのくだりは 蝶々さんにしか書けないはずですね。
とすると、ジュニアがピーカートンから渡された手紙…
『ザ★蝶々夫人 伝』とでも言いましょうか……は、
スズキと蝶々さんの超大合作ということになるはずです。
100歩譲って 蝶々さんとの出逢いと結婚式と初夜は
ピーカートンが書けるとしても それ以後のことは
ピーカートンには書けるわけがない。
しかし、この舞台のプロローグでは
ベッドに横たわるピーカートンから
「この手紙をジュニアに渡すように」と頼まれたスズキの表情はキョトンとしている。
そうでなくても、死の床で渡す手紙なのだから
普通の人なら それは遺言的なものだろうと察しがつくだろうに
そういうんでもなく、このスズキ、どれだけ鈍感なキャラなのか
何の緊張感も緊迫感もなく
まるで寝ぼけた顔をしている。
ジュニアが手紙を読み始めても
スズキはぽか~んとを口を半開きにし、間の抜けた表情でジュニアを見ているばかり。
ということは、手記の存在を スズキは知らない。
じゃあ、
いったい 誰が書いたんだ?
舞台の冒頭からいきなり、
こんな矛盾の大嘘を見せられて
僕の心は折れた。
さて、本来なら スズキと蝶々さん自身によって
毎日コツコツと書き溜められたはずの
細部にわたる手記、
『ザ★蝶々夫人 伝』。
3年もの間、蝶々さんと過ごしていなかったピーカートンが
いったいいつ、どうやってそれを書いたのかは不明。
蝶々さんが自死を遂げたあと
ピーカートンは 罪の意識みたいなものを自覚し、ちょっとメランコリックになり、その呪縛から逃れるために
スズキやシャープレスから又聞きしたことを
つらつらと書き連ね
『俺は蝶々さんを愛していたんだ』と
自らをマインドコントロールさせ
思い込ませでもしたのだろう。
キリスト教においては 死ぬ間際、神に祝福されるためにコンフェッション(懺悔)をして 神に迎え入れてもらう準備をする。
その前準備中として、自分の息子ににコンフェッションして 息子の赦しを得て
自分はめでたく神に受け入れられてもらおうという魂胆なのだろう。
そうでなければ
30年もの間、
「お前のお母さんを本気で想っていた」という大切なことを
30年もの間息子に一度も告げずにいるわけがない。
父親の死の床に来ても 憮然として
傍に駆け寄ろうともしないような息子が育つわけがないのです。
息子は思春期頃に
アジア混じりの容姿の自分のアイデンティティに悩んだに違いない。
30歳にしては 動きや表情がとても幼稚で、15歳くらいにしか見えない。
それでも 息子が30歳になるまで何も語らず
死ぬ時になって 自己満足のために手記を渡すとは
つくづく 自己愛激しい身勝手なピーカートンである。
幕が開けて直ぐ、冒頭からそんな茶番劇を延々と、無言劇、大袈裟なパントマイムで見せられ
彼方前に大拍手で迎えられた指揮者は、とうの昔に忘れ去られた存在になった頃になって、やっと、あの有名な蝶々夫人のオーヴァチュアが始まる。
オーヴァチュアにのって、セットは未来から過去に
転換されます。
やれやれ、
やっと オペラが始まるのかと思ったのもつかの間、
何故か合間合間にちょこちょこ展開される、くだんの、
【ベッドで寝ている死にかけピーカートン ✖️『ザ★蝶々夫人 伝』を貪り読む 30歳 ピーカートン・ジュニア】
という画。
さて、この、手紙を読んで過去に遡る
という、ありふれた演出。
大事なことなのでもう一度言いましょう。
『ありふれた』演出。
いったいどこが『天才・宮本亞門の』だというのか(笑)
少なくとも 演劇や映画では超絶使い古された手法。
古典中の古典の演出方法のひとつにすぎない。
オペラでも他の演出家の方々が とっくにされていますよね。
例えば『椿姫』でアルフレードやアンニーナの
回想から始まるものですとか。
メディアの洗脳に騙されてはいけない。
べつに、宮本亞門が発想豊かなわけでもなんでもない。
それくらいのことは
ちょっと冷静に想像すればわかりそうなものだけれど本作が初オペラ鑑賞だったお客さんは
こういう演出を、本物のオペラ演出家たちが 思い付きもしなかったと本気で信じているのだろうか。
もしそうなのであれば、宮本亞門という人物とその仕事を過大評価するよう仕向けているメディア、
そしてその片棒担ぎをしている オペラ評論家と名乗る人たちに大いに問題がある。
では、なぜ本当のオペラ演出家たちが
この作品に於いてそれをやらないのか。
蝶々夫人という作品への愛とか
プッチーニへのリスペクトとかを
含め、挙げればいろいろあると思うが
そのひとつは
蝶々夫人という悲劇を
僕が先に上げたような矛盾や嘘や突っ込みどころ満載の滑稽劇にしたくないからなのではないだろうか。
僕は『蝶々夫人』という作品を特別愛してるわけでもないし
プッチーニという作曲家を敬愛してるわけでもないけれど
今回のような矛盾や突っ込みどころ満載の、いわゆる子供騙しの舞台は、
僕の好みとは対極にある。
もちろん、舞台というのは虚構の世界です。
しかし、虚構がただの嘘になったとき、
残るのはシラケた気持ちです。
一度 嘘が目についたら そこから派生しているものは
すべて嘘になる。
それは、虚構の世界とは別の次元にある『嘘』です。
『蝶々夫人』は今まで 何度も観てきていて、
正直、その中にはやはり共感できない解釈や演出や演奏のものもありましたが
これほどシラケた『蝶々夫人』は僕のオペラ観劇史上初です。
ちなみに、第三者を物語のナビゲーターとして
登場させる演出のオペラも
宮本亞門の新発想ではありません。
『天才ならではの発想』などと言われているようですが、
違います。
僕はそういう演出のオペラを、もっともっと過去に、
宮本亞門が蝶々夫人を初演出する以前に、
別演目で何度か観たことがります。
それらのオペラのナビゲーター役たちは
本当に 演技に長けていて
尚且つそこに奏でられる音楽の意味を余すことなく熟知していて、
メリハリや表現や押しどころや引きどころ…
全てに於いて
物語の展開と音楽の均衡を邪魔しない。
それどころか、
逆にそれらを際立たせる介入の仕方が絶妙極まりなくて
オペラをきちんとオペラとして成立させつつ、
歌い手達の邪魔も 僕たち見ている者達の邪魔もしないものでした。
演出も、演じ手も、その手腕はまるで魔法のようで、
オペラもこんな風に演劇と融合させ得るのかと
感心させられたものでした。
ひょっとすると、それらの舞台を宮本亞門も見聞していて、オペラに精通していないお客様たちが
それらの舞台を知らないのを良いことに
猿真似を試みたのではないかと
今回の『蝶々夫人』と名付けられた舞台で興っていることを眺めながら、そう思っていました。
そして僕からしてみれば、その試みの成果は、
比べるにも及ばないものでした。
話を戻しましょう。
で、その、
【死にかけピーカートンと『ザ★蝶々夫人 伝』を貪り読むジュニアの画】を
これでもかというほど
しつこく、大事な場面の合間合間に挟んでくる。
もう、そういう演出だというのはわかったから
そんなに頻繁にリマインドしなくても大丈夫ですよ。
ただ、わからなかったのは
この至極ありふれた演出を どうしてそれほどまで主調したいのか?
ということでした。
あまりにリマインドされるので
舞台の上で起きているはずの蝶々さんたちのドラマにはベールがかかり、蝶々さんの口パクで
『どう!!!僕の演出すごいでしょ、すごいでしょ、すごいでしょ!』
という演出家の声がたたみかけてくる。
哀れなるは蝶々さんです。
これでもかという程繰り返し主調してくる ピーカートン・ジュニアと、死にかけピーカートンと、
その背後で操る演出家。
この舞台の主役は 蝶々さんではないことだけは
とてもよくわかりました。
それはある意味、
オペラ『蝶々夫人』始まって以来の、本当の悲劇ではないでしょうか。
音楽は
オケが前代未聞の爆音すぎて
飛んでくる歌い手たちの声はとぎれとぎれ。
まるでオケのコンサートかのように、オケの爆音っぷりが強烈でした。
音響のバランスがこんなに馬鹿げたオペラは
初めての経験です。
ゲネでどなたか、客席の各階で音のバランスを見る(聴く)人はいらっしゃらなかったのでしょうか?
いらっしゃらなかったにせよ、
いらしたのにあの音響バランスになったのにしろ、
どちらにしても、プロのオペラ集団のプロダクションとしてはいかがなものかと思います。
それから、指揮者はいったい
歌い手とオケにどうして欲しかったのでしょうか。
歌がオケとずれるんです。
いや、オケが歌とずれてるのか
オケが指揮とずれてるのか わかりませんが
途中からうやむやに、なんとなく合ってくる…
という始末。
1000円出して買ったプログラムには
演出家の挨拶や言葉が皆無で 唖然としました。
衣裳についての記事は4ページもあるのに、
演出家の言葉はひとことすらありません。
それを見ても、
どれだけ演出家がこの作品に魂を注ぎ心血注ぎ
神経すり減らして 作ったのかが窺えます。
それはきっと、演出ノートすら書く価値もない作品だということだからなのだろうと 僕は想像します。
普段はオペラも 声楽も クラシックも
なんにもわからない、興味もない、わかろうともしないという客層を狙って
適当にお茶を濁したエンターテイメントを作っとけば手っ取り早いでしょ? ということなのでしょうか。
見つけたSNSのインタビュー記事は
演出を良い具合に正当化するために
後付けで体裁の良いことを連ねただけ、という印象です。
舞台と同様、浅くて突っ込みどころが満載でした。
その最たるものが
『古いものは流行らない』という偏った思想。
原点がそこですか…
驚愕でした。
ひとつの作品を創るにあたり、
この演出家にとって最も大切なのは
流行るか流行らないか。
なるほど… そこから始まるわけですね。
そこに愛はあるんか?
作品も愛していなけれぱ
音楽も愛していない。
歌い手たちをも愛してもいない。
愛もなければリスペクトもない
僕とは全く合わない理由がわかりました。
『古いものは現代ではウケない、現代人には
理解できない。客を呼べない。』
ですか。
僕ら世代は ずいぶんと馬鹿にされたようです。
僕は20代ですが
はっきり言って、
これは僕ら世代への大いなる侮辱だと感じました。
「お前らには この時代のことなんてわからないし理解なんてできないよ 」
と蔑まれたも同然ですから。
僕だけじゃない。僕の両親や、学校の先生たち、じーちゃん ばーちゃん…
僕が大切にしてきたものたちをまるごと否定され 、くしゃくしゃにされ、
丸めて ゴミ箱へ放り投げられたような屈辱です。
仮に、
僕ら世代には理解するのが難しい風習や文化や
思想、信念、精神だったとしましょう。
それを、敢えて現代の者に理解させるように働きかけ、伝え続けるのが大人の役目じゃないんですか?
舞台人や物書きの役目なんじゃないんですか?
今や大河ドラマも同じ傾向に走り
『光る君へ』では 現代の言葉遣いや言い回しの
軽い会話がなされています。
正直、ムチャクチャ冷める。
なので、もう観ていません。
僕ら世代の心を掴むやり方、媚の売り方を履き違えてると強く感じます。
ダイジェストカットみたいなものを使って
TikTokで 短く分かりやすく面白く解説をするとか、
そういう寄り添い方をすればいいものを
大元のコンテンツの世界観をまるごと大きく変えればいいと思っている演出やプロダクションって
なんなんですかね。
現代の思想や風習や価値観は、現代のドラマで
いくらでも見れるんですよ。
それを、わざわざ古い物を使って
古い物が持つ美徳や価値観を改変してまで
やる意味って
いったい何ですか?
とにかく、
舞台の演出家のような、人を導く立ち位置にいる人間が
『カビ生えた思想は流行らないから、現代人にウケるものを作って 金稼ごう!』
って胸張って言えることに
僕は心底失望したし、こんな大人にだけは絶対になりたくないと強く思いました。
そんな姿勢の演出家に作られた
ハリボテのような舞台
そこを基盤にして 柱を建てて(いや、柱さえ無い)
壁塗りたくって(いや、壁もない)
できあがった 吹けば飛んでしまう 藁の家。
そんな世界に住んでいる蝶々さんは
年がら年中家の中も外もでスリップ姿で
うろうろして
男性のお客が来ても お構いなしで
その姿でお出迎えする、
ふしだらで プッツン!!
な蝶々さん。
僕は最初、ピーカートンを待ち続けるあまり
頭も精神もおかしくなってしまったという
解釈の演出なのかと思いました。
ところが、どうやらそうではなかったようです。
自分の旦那以外の男の前でも
裸に近い格好でうろうろする人妻。
それを『エキセントリック』などと
ちょっと文学的というか哲学的というか
そんな、人が自然に納得させられてしまうような説得力ありそうな呼び名をつけて
読んでる者、観てる者を『なるほど ああそういうことか』と洗脳する手腕はすごいと思います。
しかし、そんなふしだらに成り下がった蝶々さんに
『息子とふたり生きる為に また男たちの前で歌を歌って稼ぐのなんて嫌だわ! そんなことするなら死ぬわ!』
なんてヒステリックになられても、
全く同情に値しないです。
旦那以外の男の前で 下着姿でうろうろするようなことを平気でするような人妻が
いきなり そこ嘆いても全く説得力無しですよ。
男を誘うも同然な行いを普段してるわけですから。
しかも、ブーたれてる彼女すぐ隣に突如出現したスクリーンの向こうでは わざわざご丁寧に
別の蝶々さん役の役者と男たちとで展開される
蝶々さんの妄想爆裂シーン。
男からお金もらって歌ったあと、
観客の男たち数人に、
手篭めにされる。
という妄想。
幼い我が子の前で
『息子とふたり生きる為に また男たちの前で歌を歌って稼ぐのなんて嫌だわ! そんなことするなら死ぬわ!』
とブーたれながら
大勢の男たちに手篭めにされる妄想をしてる母親を見ている30歳のピーカートン・ジュニア
という…画。
僕はコントを観に来たのだろうか…。
舞台美術は
真ん中に 回転式の蝶々さんの箱家セットがある以外
プロジェクションマッピングが大半を占めていた。
このプロジェクションマッピングが
やたらと目まぐるしく変わり、視覚的にうるさい。
竹林や森や海や太陽や宇宙や大輪のカラフルな花…
などの写実的映像の合間に
たぶんだが、登場人物たちの胸中を表してると思われる
抽象的映像を
立ち代わりり入れ代わり写し出す
という手法です。
うるさいだけじゃなく、ものすごく
安っぽい。
ただなんか背景つけときゃいいや
的な。
そこを 特別な意味もなく
行ったり来たりする登場人物たち。
このカウントでこの動作をし
次はこのカウントで 上手に行き
このカウントで下手に行き
そして このカウントで上を見て
このカウントで中央奥へ走る…
そういう動線を頭でなぞるのが精一杯のせいなのか
表情や身体が
あるべき感情と伴っているようには見えません。
いかんせん、広いステージに
基本のセットは小さな箱家があるだけなので
上下の余白がありあまっている。
その余白を
頑張ってなんとか埋めるために
意味もなく行ったり来たりしている。
としか見えないのです。
これは、
歌い手たちの素質の問題では全くなく
全ての動きや動線に 意味付けをしなかった
(させなかった)演出家に責任があります。
そんな意味不明の動きのひとつの例として
蝶々さんのアリア
『ある晴れた日に』を挙げたいと思います。
これはセットの箱家の2階部分で演奏されるのだが、
この箱家、
1階部分の天井が大きく丸くくりぬかれていて
2階へは その巨大な穴にかけられた
細い梯子を登る仕様。
2階は舞台からの高さが
5メートルほどあるのにもかかわらず
1階の天井の大きな穴のために
その床は 殆ど足場がない。
一歩後ろに下がったら 穴から1階に転落する
という環境です。
いったい、何のために
それほどの大穴を
作ったのでしょうか。
そればかりか 2階には
四方とも壁はなく、あるのは
膝丈位の
数本の棒
のみ。
家の外でスズキと言い争いをしていた
下着姿の蝶々さんは、
何を血迷ったのか
突如、この梯子を登り
そういう、危険極まりない環境で
立ったままアリアを歌い
歌い終わるやいなや、
後奏の中で めっちゃ急いで梯子を降りる。
正しいカウントで
家の外にいるスズキをハグするという動作に間に合うように。
命を賭けた危険な高所で
魅せどころ、聞かせどころと言われるアリアを奏でさせるという演出。
それに感動して喜んで拍手喝采しているお客さんは
サーカスを観に行ったほうがいい
と思いました。
少しバランスを崩せば
前にも後ろにも転落して
恐らく、怪我では済まない環境。
そんな場所で歌ったからなのでしょう、
蝶々さんは 出だしから数小節音を外し
オケともずれた演奏になっていました。
野太い声で15歳の蝶々さんを歌い
辟易させられる蝶々さんが多い中
15歳のあどけない蝶々さんから
大人になる変化がとても素晴らしいと感じられた蝶々さんだっただけに 残念でした。
さあ、
ケイトの存在を知り、自死する蝶々さんですが
ここでは 信じられないことがふたつ、おこりました。
ひとつは
蝶々さんさんが短刀を手に自死しようとする場面。
なんとここで、蝶々さんは
キリスト教の神に祈るのです。
自死を禁じているキリスト教の神に、です。
短刀に刻まれているのは
「誇りをもって生きられないのなら 誇りのために(誇りをもって)死ぬ」という武士道、大和魂。
死を決意するときこそ、真の大和魂を携えるのかと思えば
十字をきり、キリスト教の神に祈り、キリスト教であるまま死ぬ。
キリスト教の神を信じていれば
命は永遠です。
キリスト教において自殺は殺人と同等、罪ではある。
しかし神を信じてさえいれば
それすらも赦され永遠の命を与えられるのです。
生きたいのか死にたいのかどっちなんでしょうか。
なんとも、歯切れの悪い決意です。
もうひとつ。
この場面では通常、
蝶々さんの決意を察したスズキが
なんとか止めれないものかと
寸でのところで 子供を蝶々さんの元に送ります。
それがこの舞台
30歳のピーカートン・ジュニアが
その役目をするのです。
お涙頂戴のベタな演出は 相場が決まっているので
それまでの展開からして、
きっとそうするだろうなぁ…と思って眺めていましたら、まさか本当にそうだったので
思わず身をよじらせて
失笑してしまいました。
ピーカートンの死の床で
手記を読んでいたはずの
30歳のピーカートン・ジュニア(以下 ピー・ジュ)は
なんと、
30年前(正確には28年前)の、蝶々さんの自死の場にやってきたのです!!
時空を超えて!!!
マルチバースです!!!!![]()
宮本亞門は
マーベルが好きなのかもしれません。
しかも、あの感動的なアリア
『さようなら坊や』に続く
緊迫の旋律を
30歳ピー・ジュのタイムスリップしてきた瞬間に用いて その偉業を成しているのです。
本来なら
「誇りをもって生きられないのなら 誇りのために(誇りをもって)死ぬ」のあと
静寂の『春のテーマ』と共に緊迫な空気が流れます。
それは蝶々さんは内なる魂の叫びとともに死へと向かう時間なわけです。
と、そこに突如、静寂を裂く旋律が響きわたります。
それは 2歳の我が子が入ってくる瞬間と重なり、
それによって蝶々さんの死路は、
一瞬にして中断される。
という
劇的な場面の旋律なのです。
それが
この演出では
その旋律は
上手の窓から 一部始終を見ていた30歳のピー・ジュが、蝶々さんの目の前を走って横切り
なんと、蝶々さんは その30歳のピー・ジュに気付き
短刀をを首に充てたままで
自分の前を横切る彼を目で追う = 30歳のピー・ジュをそこではじめて認識する。
つまり
30歳ピー・ジュが タイムトラベルしてきた瞬間。
そこにその旋律が使われているのです。
草。
「この瞬間にこの旋律使う俺って天才!!」
ってなってる演出家の顔が浮かびました。
なるほど、
『蝶々夫人』は
スペース・ファンタジーだったんです ね!?
そして下手に走って行った30歳ピー・ジュは
下手で目隠しをして立っていた2歳ピー・ジュを
蝶々さんのもとへ押しやるのですが
その間ずっと、
その緊迫した旋律の間じゅうずっと、
蝶々さんは首に短刀を押し当てたまま
2歳の我が子が障子を開けて入ってくるタイミングを
待っているのです。
音楽とは裏腹に、まったく緊迫に欠ける演出です。
30歳のピー・ジュに障子戸から送り出された
2歳のピー・ジュを抱き締めながら
蝶々さんの目は
突然目の前に現れた
30歳のピー・ジュと
しっかり見つめあって
最期の歌を歌います。
「この見知らぬ男は誰だろう」
などとは思いません。
母親というものは、未来から来た我が子が
瞬時にわかるといのは
定番なようです。
そして、
『お前がアメリカで 大きくなったときに
母親から捨てられたのだと なげかないように』
と
未来からやってきた30歳のピー・ジュに言いながらも
やっぱり死を選ぶ、という
ファンタジ~。🦋🌸
一連の我が子への想いを歌い遂げたあと
2歳の我が子を部屋から閉め出す蝶々さん。
ここまできたら
母親を追おうとする2歳のピー・ジュを
羽交い締めに引き留めるのも
もちろん30歳のピー・ジュです。
僕の頭のなかはもう、
でいっぱいです。
いつもいつも蝶々さんの傍からかたときも
離れたことのなかったスズキは
この大事な時にいったいどこに行ってしまったのか…
ここぞという時にいないスズキ。キャラがぶれぶれですやん。
スズキぃ~!!!😭
演出家によって 蔑ろにされたスズキ、可哀想すぎる。
そして
30歳のピー・ジュが
時空を超えて 28年前にやってきて
そういう介入の仕方ができるのなら
母親を自死をとめることもできたはずなのですが
敢えてそうしないという落としどころが
この演出の醍醐味なのでしょうか。
さて、母親の自死を見届けた30歳のピー・ジュ。
舞台は蝶々さんの死の衝撃も余韻も残すこともなく
急ピッチで場面転換。
クライマックスの、ピーカートンが丘を上がってくる『期待のテーマ』の旋律は、忙しなくセットを動かす穴埋めの為に使われ ![]()
![]()
![]()
プロジェクションマッピングは
よくあるワープシーンのような視覚効果を写し、
30歳のピー・ジュは
その28年後未来、もと居た世界にワープします。
そこは、もといた病室。
舞台転換劇は、
ベッドの上で ピーカートンが
「バッタフラーイ」「バッタフラーイ」と断末魔の叫びをするまでになんとか間に合いました。
最期に及んでも息子に愛してるとは言わず
自分のエゴに死んでいくピーカートン。
そして絶命したのでしょう、上げた両腕が
バタッと落ちる。
宝塚の『ベルサイユのばら』では
先に死んだアンドレが
「オスカ~ル」 「オスカ~ル」と 呼びながら
オスカルを迎えにくるという演出ですが
こちらは 今から死ぬピーカートンが
「バッタフラーイ」「バッタフラーイ」
と、30年前に死んだ蝶々さんの迎えを呼ぶ仕様となってます。
と、舞台中央から
今度は若き蝶々さんがワープをしてきます。
最後の最後、いろいろ盛りだくさんで忙しいです。
この時点では
蝶々さんは幽霊なのか 時空を超えてやってきたのか
定かではありません。
と、そこで
ベッドの後ろから
ベッドで果てているピーカートンとは
別のピーカートンが 登場し、客席はどよめきます。
まるで、歌舞伎か宝塚でお馴染みの
替え玉早替えシーンを見た時のようなどよめきです。
皆さんきっと、横たわっていたとピーカートンを
本物だと思い込んでいたのでしょうね。
ベッドにはピーカートンの身体が残っているので
ベッドの後ろの暗闇から颯爽と登場した
軍服姿のピーカートンは 幽霊なのだと
推察します。
ということは、やってきた蝶々さんも
マルチバースではなく幽霊なのでしょう。
そして、
ふたりは 笑顔で手をとりあって
あの
蝶々さんの夢が脆くも敗れた悲劇を象徴し
愕然とする残酷な現実をつきつける
激しい金管の音楽の中、 舞台中央奥へと歩いて行きます。
ふたりとも、息子には目もくれず。
笑顔のふたり。
…ん?
どう見てもふたりで天国へ向かっていくという演出。
ん???え、いや 待て待て待て!!
え、これ、ハッピーエンドの曲じゃないんだけど。
あとには、
そのふたりの後ろ姿をいつまでもながめている
30歳のピー・ジュ。
そして幕は降ります。
僕が3時間近く眺めていたのは
『蝶々夫人』ではなく
マルチバーストラベルする能力と
幽霊が見える能力を
30歳で身につけたけど
とことん親に棄てられる
ピーカートン・ジュニアのホラー(ホラ?)話
なのでした。
最初から最後まで嘘だらけで
音楽に込めたプッチーニの意図を
侮辱する演出だった……。
そういうことするくらいなら
作曲も作詞も1から自分でやればいいのに…。