頑張りたくない。何も考えたくない。なので、気持ちを言葉にして、ストレス発散にしようと思う。

 

                                  

 

つらいとき、目を開けていると余計なことを考えてしまうから、布団に入って寝る。起きているだけでつらい。何もかもが嫌で、泣きわめいてすべてをぐちゃぐちゃにしたいけど、人の目があるからできない。

 

気分がふさぎ込むと、勉強をしようとか、本を読もうとか、そういう気力が湧かなくなる。やらなきゃと目の前の勉強にとりかかりはするけど、まったく集中できず、悲しい気持ちでおおわれてしまう。ふだんは思考が散逸しやすいのに、こういうときに限っては、嫌なことばかりが頭をよぎる。不便な頭だと思う。

 

気分が一定しない。うつ病とかそういうのではないのだから、元気を出そうと頑張っているけど、ちょっと出てもすぐダメになる。やるべきことをしていないし(できないのではないと思う。)、ちゃんと生きられていない。

 

                                  

 

いつからか、人の怒鳴り声が駄目になった。聞くだけで体が硬直し、そういう自分を責めるようになった。怒鳴り声を聞くだけで、みぞおちが締め付けられ、頭を抱えて叫びたくなる。

 

家では家族が毎日喧嘩をしている。そんな時は、youtubeなどでできるだけ気を逸らし、それでだめなら自室で布団にくるまって半泣きになりながら嵐が過ぎるのを待つようになった。勉強や読書どころではなくなってしまう。

 

                                  

 

自分を好きになってと言われる。そう言ってくれる気持ちはわかるし、言っている言葉の意味はとりあえずはわかる。でも、自分が好きって何なのだろう。よくわからない。

 

ありのままを受け入れることだ、と言われることがある。でも、こんなダメな自分を受け入れてしまっては、一生このままな気がしてならない。確かに、「今の自分をゼロとして、何かができればすべて加算点」という考え方もあると思う。自分の考えを修正するならこれが一番やりやすいだろう。ただ、その修正は継続的にしなければならず、相当な気力を必要とすることで、いまだできずにいる。

 

                                  

 

自分を責める理由の一つは、周りから責められることを防ぐためというのもあるように感じる。私は狡猾な人間だと思う。もちろん、例えば相手を怒らせたとか迷惑をかけたという場面で、その場で相手に謝ることはあっても、相手の前で「必要以上に」自分を責めることはしない。そんなことをしては、相手も困惑するだろうし、場合によっては相手は「許せ」という圧力を感じて、もやもやしながら許さざるを得なくなるだろう。自分を責めるのは、自分の心の中でのことである。そうすると、自分の心の中での「周囲の叱責」と、私は戦っていることになるのだろうか。周りの実像が見えていないのだろうか。虚像を作り上げなければ、自責はなくなるのだろうか。

 

                                  

 

このようなことを書いていて、数週前に「他人の意図を推測すること」の是非について考えたことを思い出した。行動と意図は、手段と目的の関係にある。例えば、叱るという行動は、相手の行いを正させるという目的を達成するための、手段の一つといえる。このように「意図」という言葉を理解するなら、行動から意図を推測するというのは、手段から目的を推し量る行為にほかならないといえる。

 

しかし、「何をめざしてそれを為すのか」ということは、場合によっては、その人が「あえて」隠している場合がある。例えば、「叱る」という行動は、ほとんどが教育的意義を伴ったものだと考えられるけれど、ただの「鬱憤晴らし」の可能性もある。「怒る」という行動になれば、その目的は多種多様で推し量ることはできない。相手が「こうしてほしくて(例:謝ってほしくて、気持ちを理解してほしくて)怒っているのだ」と言ってくることなど、まずないと言える。その「あえて隠された」意図(目的)を"暴き出す"ことは、人の自己決定を否定してそこに踏み込むという意味で、とても失礼なことなのではないか。そのようなことを数週前に考えていた。

 

「他人の意図を推測すること」が、その相手の虚像を作り出すことにつながるのだとしたら、これは、他ならない「その相手」に対して失礼な行為だと考えることもできる、などとふと思った。

 

                                  

 

まだまだ思うことはある。考えるべき課題もある。でも、少し気持ちが落ち着いてきた。また就寝前に書きたいと思う。

 

 

昨日の続きを始めたい。最初は一気に書ききるつもりだったけど、時間がまとまってとれないので、何回かに分けて書く。

 

                               

 

「私」がなぜ自傷を始めたかといえば、自分に罰を与えなければならないと強く信じたからである。それでも怖かったから、カミソリの刃はゆっくりと押し付けてゆっくりと引いたし、閉じ切っていない傷の上から切ることはできなかった。

 

自傷は、罪悪感につぶされそうになったときのせめてもの「救い」であった。自傷は、罪悪感を軽くしてくれる、自分なりの薬であった。けれど、その薬は私をむしばんでいった。ストレスへの一番の対処法が「自分を罰すること」になっていったのである。

 

今の私は、ほぼ毎日のように、「死ななければならない」「罰を受けなければならない」と思って生きている。以下に述べるのは直感的な推論にすぎず、裏付けについて議論ができる(反証可能性のある)命題ではないけれど、私がこのようになってしまったのは、人が怒られていてつらいとか、不快なことがあって腹が立っているとか、納得がいかずもやもやするとか、そういう色とりどりのネガティブな感情を、すべて「私が悪いのだ」という一言で片づけることで、つまりは自分の罪として単色で染め上げてしまることで、嫌なことについて深く考えることを避けてきた結果なのかもしれない。

 

                               

 

死後の世界というものがないのなら、「私」にとっては、死ぬことは救いであり、究極の自傷行為である。しかし、だからこそ、罰を受けるべき「私」はそうたやすく死んではならない。そして、「私」は「私」のみで存在しているのではないから、すなわち悲しむ人がいてその人たちの心に深い傷を残しかねないから、「私」はたやすく死ぬことは許されない。なぜなら、新たな罪を犯すこととなるからである。苦しむことが償いであるのだとすれば、死によって苦しみから解放されてしまっては、この新たな罪を償うことができなくなってしまう。そのようなことになっては、「私」は「私の」生を自己の手で完結したことにはならないのである。

 

死後の世界というものがあるのなら(死後も意識が残り続けるのなら)、「私」にとっては死ぬことは救いとはならない。文字通りの「死ぬほどの」苦しみを乗り越えてもなお、意識が存在して苦しまなければならない。しかし、そう考えると、死は私にとっての罰となりうる。死を前にして、罰と救いとは分離する。

 

                               

 

ここまでで、私はとりあえずの頭の整理ができたように思う。とはいえ、思うところをただ漫然と書きたてただけであり、言葉の定義や論理関係が十分に整理されていないから、議論というにはいささか粗笨なきらいがある。そこで、次からはもう少し言葉に気をつけて、自傷について考えていこうと思う。

二十歳を少し超えたころから、内省的に考えることが爆発的に増えた。専攻分野が多分に哲学的だから、それに"毒された"結果なのかもしれない。日がな一日そういうことを考えながら生きているから、そうなったのかもしれない。何にせよ、考えることが多くなって、頭の中にとどめ置くことが難しくなってきた。かといって、自分の恥部をさらすような内容で議論を交わす相手もいないし、いたとしても準備などの手間を考えるとちょっと腰が重い。だから、ここに一人で孤独に文章をつづることで、とりあえずの手を打とうと思う。

 

何のために文章にするのか。ブログにするなんて目立ちたいのか。一人で書きたいならWord文書にして自分のパソコンに保存しておけば事足りるじゃないか。そんな声が聞こえてきそうである。ごもっともだと思う。言い返す言葉がない。たぶん、私は誰かに気づいてほしくて、書いているのだと思う。しかし、やっぱり気づかれたくない。情けなすぎる。そういう非常にアンビバレントな心情の上にこのブログは乗っかっている。このあたりのことについては、またの機会に考えようと思う。

 

                               

 

とはいえ、最初の話題がこれってどうなのとも思う。いくら恥部とはいえ、重すぎるようにも感じる。でも、一度考えてみたかったテーマなのでとりあえず書いてみる。

 

自傷行為というのはだれしも聞いたことはあるだろうけれど、見たことがあるとかやったことがあるとか、そういう生々しいレベルで自傷行為に触れたことがある人となると、とたんに偏在的になるように思う。とにかくそういう人は、"界隈"にはいっぱいいる、という印象がある。

 

                               

 

私は、かつて"界隈"に片足を突っ込んでいたことがある。とはいっても、私の場合は保護入院措置をとられるような本当に重症な人に比べたら(少なくとも見た目の)傷は浅い方だったし、精神的に苦しいなと思ってもそれを現実世界のだれかに吐き出すことはせず医療にアクセスすることもしなかったから、仰々しい診断名がつくこともなかった。病名がついていないことを健常者の定義とするのなら、私は昔も今も健常者ということになる。

 

人には人の苦しみがある。たとえ親でも親友でも恋人でも、長年連れ添ってきた配偶者でも、わからないことはあるから、苦しみを比べることが意味のある議論だとは思わない。教室にいるとき、職場にいるとき、ともすれば家のリビングにいるときに明るく笑っているあの人も、一人になれば、何かに苦しんでいるかもしれない。私も、病名はないけれど、苦しい。

 

                               

 

そもそも、自傷行為について考えたいのは、他ならない私が当事者だからである。私がその道の専門家だからではない。したがって、自分の経験に基づいた、すぐれて個別的で内省的な(そして時には自罰的な)議論にならざるをえない。他人の苦しみを根底から理解することなど到底かなわないのだから、私の経験で自傷行為全般について何かを語ろうというのは、誠実な態度ではない。「私」は「私」についてしか語りえず、そして、語りえぬことにはとりあえずは沈黙をするのが誠実というものだと信じている。こういうセンシティブな話題で自分のことについてだけ書くというのは、自分勝手なように見えて、実は他人の領域に土足で踏み込まないというせめてもの誠実さなのかもしれない。だから、ここからも私の話を続けたいと思う。

 

                               

 

自傷を始めたのは、高校2年生の頃だった。すべての責任が自分にあるように感じられて、周りの人たちから責められているように感じ始めた。中学1年生のころから心の調子がおかしいことはままあったけれど、一過性のものだと思っていたから特に誰にも言わずひた隠しにしていた。すると、実はそんな軽いものでもなかったようで、少しずつ少しずつひどくなっていった。

 

自傷を始めたころは、自分は罪を犯したから罰を受けなければならないという信念にも似た強い思いが湧くようになってきていて、それなのに誰も私に罰を与えてくれないから自分で与えることにした。怖くなかったかというと結構怖かったし、痛くなかったかと言われるとなかなかに痛かった。それでも、その恐怖と痛みを自分が感じることで、自分は今罰を受けているのだという実感が得られて、その時だけは少し気が軽くなった。

 

一度経験してしまうと、次はたやすかった。なんといっても、いままで罰を受けずに苦しんでいた自分に、やっと罰を与える方法が見つかったのだ。ことあるごとに左の上腕をカミソリで切りつけた。そしてそのたびに気持ちは少しだけ軽くなり、数時間だけなら普通に生きていい気がした。自傷行為は少しずつ大胆になっていき、1センチ以上深く切り込むようになった。深く切ると、血が多く出て、傷もグロテスクになる。それだけ自分は罰を受けているのだと思うと、人として生きていいと言われている気がした。

 

                               

 

肉体的な自傷行為は今はやっていない。やりたい衝動に駆られても、やらない。今では、左上腕に無数の白い線と肉の盛り上がりがあるだけである。人に見せたくないので、プールや温泉といった場所は避けるようにして、やむを得ず行く場合は、大きいばんそうこうで適当な言い訳をして切り抜けている。

 

自傷行為体験談によくあるような「恋人が止めてくれたから」とか「親友のおかげでやめられた」といった感動的な足の洗い方は僕はしていない。やめた理由は簡単である。体を傷つけるより、心を傷つける方があとあと傷が大きくなることに気づいたからである。私は、いわゆる「精神的な自傷行為」というものを意図的にするようになった。今もやめられずにいる。

 

                               

 

本当はもっと書きたかったけれど、眠たくなってきてしまった。尻切れトンボになってしまって悲しい。でも今日はここまでにして、続きはまた次の機会にしようと思う。おやすみなさい。よい夢を。