十六、始まりの地グラキアタへ
十六、、始まり地のグラキアタへ 十六フォルミードが気付くとすでに朝が来ていた。フォルミードの耳にはまだ夜の静寂に鳴いていたフクロウの声がこびりついていた。世界の神秘に手を伸ばそうとしても、それは夜の闇の深さほど深く、そして夜空のごとく無辺で、立つ場所も方角も定かではなかった。寝ているのか、目覚めているのか、フォルミードは夜よりも更に濃い漆黒のフクロウに気づいた。先程まで鳴いていたフクロウだろうか?フクロウは首をぐるりと一回転させ、光を閉じ込めた瑪瑙のような目で世界を見渡している。また一巡り、そして一巡り。…あれは私だな。そんな声が心深くから聞こえた。声に耳を澄ましていると、闇に瞬く小さな星よりもさらに小さな灯りが、魂の夜空へと飛び立っていくのが見えた。「目覚めたようだの。エルフとラグナの裔は目覚めておるぞ。ブロッコは朝早くから狩りに出掛けておる」ラーウムの声が狭い小屋に響いた。火の匂いの中に香ばしいパーニス(パン)と乾燥肉の香りが所狭しと立ち込めている。夜が整えたフォルミードの身体は朝日に導かれるように起き上がり、ラーウムの無骨な手が差し出す水の入った柄杓を手に取った。外に出ると口をうがい、顔を洗った。そこへブロッコが帰ってきた。「獲物は山鳥だ」そう一言言うと、小屋に入っていった。朝日が射るような光で周りの岩山を発光させている。山小屋から海は見えなかったが、すっきりと晴れ上がった空が青々と広がっていた。朝日に輝く岩山のように、きっと空の青は輝く闇の色なのだな…ふとそんな思いにとらわれた。フォルミードは洗った顔をふくこともなく、朝露のついた野の草の葉のように敬虔な姿勢で太陽を拝んだ。夜をさらに深く知ることができるように、蓄えることができるのであればもっと光を、もっと熱を、いつか闇が訪れても魂に星の光が瞬き、火の温もりが消えぬようにと。「朝日が恋しいか?」戸口でラーウムの声がした。人間の声に驚いたのか山鳥が音を立てて飛んでいく。その翼が連れてきたのか、どこからか木の王の香りがした。音のした岩の近くを振り返ると見事なシーダーの木が立っていた。はて、今のは昨晩のフクロウであったろうか?「夜の星を好む者は朝日も好むと見える。どちらか一方が好きな者はもう一方に悪夢を見る。昼であれば夜は呪いを吐き、夜であれば昼は怒りの気炎を上げる。すべては己の影だ。夜の影に、昼の影…今日は峠へ向かうのであろう。ならば腹ごしらえをしておくことだ。石切場もこの上にある。そこまではわしが見送ろう」ブロッコが捕まえてきた鳥を解体し焼き上げると簡単な朝食が済んだ。ラーウムは山岳民族特有の丈の長い革の防寒具と鉱油(カウシマ)を用意した。「この頃山の獣たちが騒がしい。このあたりの者が火を使うことを知っていて、以前は人間がいると姿を見せなかったが、今では襲われることもある。これがグラキアタの汚れのせいなのか。…この鉱油(カウシマ)は特製で、香草を混ぜ合わせた獣の嫌いな臭いを含んでいる。特に狼には油断しないことだ。奴らはずる賢い」そう言いながらエルフの連れてきた白狼をみた。「じゃがラスキルの使いがいるなら大丈夫じゃろうな」そう漏らした。太陽が山の端から三個分昇った頃、五人は小屋を後にした。見晴らしの良い岩場を抜けて、切り立った岩場へと続く道を右へ左へと岩を迂回しながら進んでいく。その途中で岩に混じって城壁や神像の一部、壁画とおぼしき物の残骸と出会った。「ラグナの遺跡だよ。国の中心、火の神殿はその向こうにあった。その跡地に石切場がある」フォルミードは何かに鼻をくすぐられた。それに山であるにもかかわらず海鳥の声がしたような気がした。風が足下を這い、吹き上がってくる。と、すぐに視界が開け岩場からの全景が見えた。目の前には切り立った断崖絶壁が北東から西の方角へと弓なりに続いている。西の端にはラグラス群島の一部が見えた。絶壁の下に横たわる海は濃い群青色にただならぬ深さを隠し、湾に流れ込む海流が上げる白い波頭と、岸壁にぶつかる波濤がぞっとする美しさと荒々しさで足下の岩を揺らし、身のすくむほどの高さから落ちてゆく幻惑すら 覚えた。「岸壁の所々に亀裂と穴が見える見えるはずだ。あの中に採掘場がある。ラグナの秘密と共に」「ということは、あの切り立った岩壁を下りるのですか?」「そうだ。岩に固定した縄梯子と滑車を頼りに、小屋の屋根と思って何度も上り下りする」「屋根から下りる?この高さがですか」「なに、平常心だ。身を守るものは常日頃の心配りだ」ラーウムの声には不安のひと欠片もなかった。それでも振り返ったその瞳を翳りがよぎったのをフォルミードは逃さなかった。「老婆心だが、お前らが向かおうというグラキアタの国は大陸の最も北に位置する荒涼とした地だ。その地はさらに痩せ、民に餓死する者も多いと聞く。王族の娘を中王国トルリンドに嫁がせたと言うが、何やらきな臭い奸計があるようだ。静かなるトルリンドに内紛が起きているというではないか。トルリンド国王の后が亡くなったことをいいことに、王子を逆賊として国を内側から支配しようとしていると聞く。霊峰ラスキルの北にはグラキアタ。南にはトルリンド。どちらにも混迷しか見えん。お前さんはそのことを知った上で行くのであろうが、老婆心だ。何も止めるつもりはない。ないが、さらなる災いを起こさぬように願うよ」「最初は山岳地に引きこもった隠者と見えましたが、その確かな見識には驚かされます」「見識などではない。ラグラスには一つにまとまった国がない。海賊と成り果てても奴らは国への思いを背負って動いている。情報通は当たり前のことなのだよ」「なるほど。地揺らぐと国揺らぎ。国揺らぐと民の心揺らぐ。揺らぐ心は操作しやすいものですからね」「そういうことだ」「ラグナが先史代の王国の火を探しているように、私は《言葉》を探しているのです。世界の姿を紐解く《言葉》を。エルフのリ・アンがその言葉を私に紐解いてくれるかもしれない。グラキアタが何もない最北の小国として現在に至るまで国を存続させることができたのは、最古の書「ジアンの書」があるからだと聞きました。叶えられるのであればその書に触れたい。《言葉》を紐解きたい。その望みゆえに向かうのです」フォルミードの晴れた決意の目にラーウムが言った。「石の中に元素があり、火の中にも元素がある。《言葉》は人間の世界の元素に違いない。いつかまた来ることがあったら立ち寄って欲しいものだ。お前さんの旅の続きを聞きたいと願うよ」「もちろんです。生きていればのことですが」「生きているとも。きっと学問の女神であるフクロウがお前さんを導くに違いない。昨晩のフクロウのさえずりも何かの機縁に違いない。それに真の決意は一人だけのものではない。誰かがそれを受け取り繋いでいくものだ」フクロウか…そうだ。夢のフクロウのように世界をぐるりと見渡すのだ。自分のこの目で。フォルミードは力強く手を振った。ラーウムもそれに応えた。それにしても、とフォルミードはラーウムが上り下りしているだろう絶壁を思った。その大胆さも然ることながら、死に渡ったと言っていた前身に隠された姿とはいかなるものだったのか、別れの手を振る無骨なまでの姿の裏に、彫金師のような繊細な技が思い描かれてならなかった。山ほど高い岸壁を離れ、一行が山道に差し掛かると吹き降ろしの北風が吹いてきた。風は岩肌をこすり、来る者を拒むような風圧とともに、木々をその幹ごと揺らしながら恐ろしげな鳴き声を上げた。ラスキルの更に北にローアルの山脈が見えた。ここからは山と山に挟まれた渓谷を行く。「俺は海育ちの海賊だ。山は苦手だ」ブロッコがつぶやくと一行の身が引き締まった。フォルミードの後ろをリ・アンと白狼がそしてタミアスヘリオンが最後尾にブロッコが続いた。リリは岩肌とリ・アンの肩を交互に飛び回っている。フォルミードは腰の短剣と背にした鉱油(カウシマ)を確かめながら、用心深く木々と岩の間を抜けると、息を切らしながらも岩山の上へと出た。岩山の向こうにラスキルの頂きを拝みながら、次第にその偉容の全体が見え始める頃になると、呼吸の乱れは圧倒された感情の震えへと変わっていた。大陸の山の王たるその尾根は他の山々を征し東の国、バラムまで続いていく。頂きから東南に吹き降ろす風たるや、凄まじいものがある。《白い牙》と恐れられる煙に似た雲がラスキルの頂きにかかることがあるが、雲に見えたものは針のごとき氷の小片で、一気に山肌を雪崩のように襲い来る。人間ならば皮膚が凍りつくだけではすまない。氷の針を受けた皮膚は血を吹き出し、吹き出した血が凍りつくとともに皮膚すら剥がされることになる。《白い牙》が駆け下りる獣すら寄り付かぬ山肌には群生する《氷柱の森(グラキエス・コルムナ)》がある。《氷柱の森(グラキエス・コルムナ)》は恐ろしい森だ。昼の短い時間だけ葉が開き、それを逃すとすぐに葉は丸まって閉じ、矢尻のように尖ってしまう。そして矢尻と同じように触れるものは皮膚は裂かれ、時には内蔵を突き破られる、いわば死の森が広がっている。美はその厳粛さを命を等価とするのかもしれない。ラスキルの威厳と美を湛える眺望に峻厳なまでの理の裏表を見たように思った。ふとフォルミードの視覚に動めくものが見えた。氷山のように割れた大地と白い荒野と紺碧の海。グラキアタには峡谷ともいうべき亀裂が大陸とぐらグラキアタとを分け隔てている。渓谷の下は冥い海が見える。「ここがグラキアタか」「あそこ、見て」大陸とグラキアタには石造りの橋が架かっている。「あそこが入口か?」「行こう!」橋を渡った途端橋は大きな音を立てて崩れ落ちた。「グラキアタの魔女が誰も外に出さないつもりだ。」「これで汚れの地へ閉じ込められた」荒涼とした地は白く、あるいは光を反射して氷のラビリンスが見える。「あれが城か?」「穢れなどいないぞ」「見ろ!」とフォルミオードが煙る空を指さした。雲の中に月が見えた。発光する月が雫を滴らせる。それは月のン弥陀のように見える。「月の涙がサラセインを育てる。そう聞いた」「本当か。じやああの下にあるんだな」「言い伝え通りなら」「あの下に水の花がある」地面はすでに氷に覆われていた。凍てつく風は死の息を運んでくる。防寒具を羽織っていてもわずかに露出した先から寒さは容赦なく忍んで来る。「リリ寒かったらフードの中へ入っておいで!」リアンは肩で震えるリリに言った。「ラスキン!お前は丈夫そうね」白い狼は刀の様にかざし辺りを窺っている。「待て!見えぬものがそこにあるぞ」タミアスが叫んだ。よく見ると地平が歪んでいる。空中で光が屈折しているのも見えた。「何かある。それも巨大な何かだ」光の加減で巨大な何かの影に入った時、それが見えた。氷でできた城が五人の前に立ちふさがっていた。