恋石たちの岸辺 十七、瞬くホタルの頃
なにぶん隼世の気持ちはぐちゃぐちゃになっていた。社会通念の裏側を見たような気分だったからだ。これまで想像したことも考えたこともないリアルなすがたがそこにはあった。世の中は思いの外奇妙だ。法律や数字では割り切れない。思いだってはかられるものじゃあない。そしてそれぞれの人格の中で膨れ上がっている。そんな不確定な現実に自分は住んでいる。そこで迷わされ小突かれ他者よりはよっぽど少ないだろうけれども頭を悩ませて来たんだと思えた。「ちょっと出かけて来る」「もうすぐ夕食。それに今日はバイトじゃないでしょ」「夕食はいらない。『ばっけ』のおにぎりみたいなのでいい」「何個食べるの」「二個食えるかな」「今日は友だちと?」「うん。演劇部の脚本についての打ち合わせになる。秋までもう日があさいから」少し嘘をついた。槇村はまだよかったが珠理のことが頭を厚い雲で覆っていたからだ。自分なりに消化しようとしたが上手くいかない。その珠理と出かけるのだ。当の槇村家まで。説明はできるが変な風にならないともかぎらない。隼世は少し早めにアパートを出た。もちろん足は自転車だ。待ち合わせのコンビニは隼世が通うところよりも少し大きく、駐車場も広かった。入り口脇には長椅子があって良く学生が待ち合わせをしている。早いと思っていたがコンビニの長椅子にはもう珠理が来ている。隼世を見つけると片手をあげた。「ずいぶん早いね。待った?」「落ち着かないんだよ。夏音に話しかけることを考えてた」「ああ…確かに。ところでさー。『半神』をどうしてやりたいと思ったんだろう。何か聞いてる?」「突然だったんだよね」それから珠理はこんなことを言った。「夏音を好きになってからというものよくモノマネをした」「モノマネ?」「私ね。好きな人になってポーズをとったり話したりしてその人に近づこうとするの。変でしょ。夏音のことをまじかに見てその時の表情や行動から心理を想像するの。近くに感じるために。すると何かが見えるの」確かにマネには話し方や話す内容までその人に似てくることがある。でもそんなことができるのは一部の特殊な人たちだけだ。一般人にもできるなんて思えない。「ん。疑ってる?好きになればわかる。特別な能力が開く、一体になるような能力がね。そして分かったことがある」それが恋愛かどうかは置いといて珠理は夏音に本当に惹かれているのだと思った。「なに?」「夏音は私から見ても人のいい槇村の両親を煙ったくとは言えないけど距離を措きたがってる。思うに重圧を感じるんだと思う」「重圧かー分かるような気がするな」「なになに」「人と人との繋がりとか、責任とか、自分が自分でいるだけでも大変なのに世の中はしがらみだらけ。自分から招いたことじゃなくても巻き込まれていく。判断力もおぼつかない子供時分からそうだったとしたらそりゃあ重圧だよ」「だけどそれが繋がりというものじゃない」「違うよ。繋がりというのは一方通行じゃない。でも一方通行で繋がっていると思ってる人もいる。そうなると相手は犠牲だね。重圧どころじゃない。幼い頃そうした経験をするとどうしても臆病になる。人と接することの距離感が上手く掴めないんだ」「そうかも」「自分の父親がDV野郎でね。イヤという程経験してきた」「ごめんね。何も知らずに変な奴と思ってた。通づるところがあったんだ」「でも『半神』を読んで思ったんだ。お姉さんのユージーは切り離された時、確かに重圧から自由になったのかもしれない。けど最後に言ってたよね。憎しみもかなわぬほど憎んでいたと、愛よりももっと深く愛していたと。あれは重圧の矛盾をいっているのだと思えた。重圧に感じるほど妹ユーシーを愛していたことに気づくお話。きっと槇村もそうなんじゃないのかな。そうした重圧を撥ねかえす力がないことへのジレンマがあるのかもしれない」 」隼世は自分への思いも含めてそう断じてみた。その時だった。「あれっ。待たせたかしら」コンビニの脇から夏音が声を掛けてきた。驚いて振り向くと浴衣姿の夏音がいる。「どうしたのその格好?」と珠理が驚いた。「変?」浴衣の夏音はとても涼やかで、結った髪が顔の輪郭を引き立てている。「もう七夕だよ。明後日だけど。浴衣着る機会ってあまりないじゃない。今年の新調にね、着てみたの。ところでどうした。『半神』のシナリオできた?鈴代川へ行きながら話そうよ。そろそろホタルだって出てくる頃。ハヤセは知らない。スズシロ川のホタル奇麗なのよ。学校の東側。斜面が見えるでしょ。あそこを流れている」隼世は夏音に一気に先手を打たれたと思えた。珠理に目くばせするとね珠理は咳ばらいをしてこう切り出した。「それよりもナツネ。この頃何か心配事でもあるの?様子がちょっと変だよ」と。それですべてを領解したのか、しばらく沈黙のまま歩いた。ホタルいるといいなぁなどといいながらね夏音は躊躇しているようだった。十五分か二十分もした頃不意打ちのように立ち止まり振り返えると二人にこう告げた。「母がね。まだ生きているみたいなの。この間偶然聞いちゃって自分で確かめようとしていろいろと当たってた」「で、どうだったの?」「生きてた。ターミナルケアを受けられる施設にいるみたい。実の娘ということでしつこく訊いたらやっと教えてくれた。母さん今じゃ私のことも覚えていないんじゃないかって。病気の進行も早くて、それで槇村の里親に連絡してきたらしい。私どうしたらいいと思う?」「そうだったの。難しいね。亡くなったって聞かされていたんでしょ」「きっと槇村の父と母は私に気兼ねなく養女になって欲しかったんでしょうけど。色々あったとはいえ実の母よ」夏音はもう一度、どうしたらいいんだろうとため息を漏らした。「会いに行くべきだよ。そうしないと後悔する」そう応じたのは隼世だった。二人ははっとしたように隼世を振り返った。「言葉はお互いを理解するためにある。けど言葉で説明できない感情だってある。意思疎通にはそれでも理解しようとする心も忍耐も必要なんだと思う」「へ~え、隼世がそんなこというなんてね。何かあった?」「『半神』のこと考えてて思うことがあったんだ」聞きたいと夏音がいう。隼世は所詮人間は相手を理解することはできないという。勝手な自分の憶測から少しも出られないのが人間の悲劇なんだ。たから自分で自分にプレッシャー、重圧といってもいいかな、それの出口がないように感じてしまう。だったら自分で背負ってしまうのが唯一解決する方法になるんだと思う。その決意が生き方を変える力になる。半神のユージーに思いを馳せてたらそんなことを考えてた。最後にユージーが鏡に映る姿に妹ユーシーを見た時、自分の孤独と後悔、自分の愛と憎しみを自覚したんじゃないだろうかとね。「うん。いいと思う。その方向でシナリオ勘んがえてね。私も心決まった。会ってくる。母に会うことにする。二人ともありがとう」その後、夏音はホタルを見つけて走り出した。その姿が自分の内側に灯りを燈すホタルに見えた。 …つづく