夜伽噺 死者の焼き菓子 その三(最終話)
三 ざわざわと糸杉が震えると夜の鳥が飛び立った。夜空が星座ごと傾き、風が川のように流れている。その流れに浮かびながらまん丸な銀の瞳に輝くクルルがエリをつかんで飛んでいる。「クルルは古森じゃあなかったの?」「古森に住むものの姿を借りたのさ。古森とはそこに住むすべて。どれもわたしの欠片」嵐が運んできた新雪がすべてを覆い、空には寒々と星が瞬いている。いつの間にか夜空は晴れ上がり、煌煌と照る月の下には一面の雪明りが広がっていた。白い荒野の遠くには、ロウソクよりも小さな家々の明かりが見えた。空から見るのは初めてだが、クルルは間違いなくエリの家へと向かっていた。「いいかい。これからおまえはおまえの欠片を見る。私の手をしっかり握って離すんじゃないよ。どちらにもいけなくなってしまうからね」町から続く細い一本道を、一台の救急車両がが走っているのが見えた。その上空をひとっ飛びに追い越すとぐんぐんとエリの家が近づいてくる。家の玄関先には数人の黒い人影が集まっていた。「さあ、抜けていくわよ」「まさか。クルルっ」そういうなりクルルは灰色の煙の塊りを噴き上げる煙突に飛び込んだ。うっ。と感じたのは初めだけ。煙はまるで雲のようだった。厚い雲の下に炎の明かりが見える。炎の熱は少しも感じなかった。逆に炎に守られているような気がした。炎の中から部屋を覗くと燭台のロウソクが部屋中に何本も灯り、夜空から見た家々の明かりのように見える。炎は人が動くたびに揺らめいたが消えることは無かった。部屋には抱き合った父と母、膝を付いたリズ、神妙に立ち尽くす教師と近所の知り合いの姿があった。リズの前には蒼白なわたしがいる。わたしの欠片が蝋人形のように横たわっている。クルルの手が再び強く握って来たが、わたしは握り返すこともなく、かといって落胆することも無く、不思議なほど冷静に、事の成り行きを見守っていた。やはり以前同じような経験をしたのだ。そんな記憶の空間に小さなロウソクがぽつりと灯り、ひゅるひゅると風が炎を揺らすと炎は言葉を風に告げ、風はわたしにこう告げた。……今日、誕生した。風が伝えたのはロウソクの言葉だった。十年前にすでにわかっていたこと、時々夢に見たことが、今日起こった。すでに経験して知っていたことが。わたしはクルルの手に返事をした。するとクルルの手はそっとわたしの手を放した。きっと心の中を読んだのだろう。わたしはもうエリではないのだ。炎の中からわたしは部屋に歩み出た。母は父にしがみ付き泣いている。「もう泣かなくてもいいんだよ」そう母に告げると、薪の火の粉が金粉のように宙を渡りそっと父と母を覆った。リズはエリの凍った髪を撫でている。暖炉の暖かさで、わたしの欠片からはぼたぼたと水滴が落ちた。リズが落とした涙がその滴を追うように床に落ちると、一つになって床を濡らした。わたしはここにいる。「わたしはここにいるよ。リズ」雪解けの水滴はいつも春を歌って川になる。足下に落した涙はリズの中を流れる川から溢れた滴。リズの瞼に残った滴が言った言葉を、エリははっきりと聞いた。「忘れないよ。エリ。私はあなたのことを忘れないから。永遠に」そうね。リズ。わたしにはあなたの姿が時を超えて見えたもの。「さあ、おまえは選ばなくてはならないよ」クルルはそう言って真っ直ぐにわたしを見た。わたしは…少し口ごもって小さく答えた。「わたしは炎になる。ロウソクの炎になる」「ふうん。見えたんだね」心に浮んだものを知っているのか、クルルはそういいながら「おまえにひとつたとえ話をしよう」と言った。「いつか未来の人間はこの地も、山も、高原も、川も、泉も、古森も、思い思いに開拓することだろう。今見えている世界は変化し、森もなくなる。炎にしたってそうだ。使うのは人工の燃料が多くなり、電気のエネルギーでほとんどの明かりはまかなわれる。山の植栽をしたり、行楽などで野外で炎を使うことがあっても、古森の物語はどこにもなくなる。炎の歌は誰にも聞こえなくなる。近い将来、そこに住む人間は私たちとの交流の絆を失ってしまうことだろう。土地の開拓や支配にともなう歴史や物語がこれからも生み出されるだろうが、前の世にも先の世にも脈々として受け継がれる物語は姿を消し、沈黙を通して聴かれる歌は届かなくなる」「それじゃあ……」あまりのことに言葉がため息のように衝いて出た。「まあ、お聞き。ここからがたとえ話だよ。昔々神様の門の前にやって来る人間が日増しに増えたときのことだ。目をかけていた人間たちだったが、人間の願い事に神様も少しうんざりしてきた。そこで神様は姿を隠すことにした。新しい土地にしても、山にしても、島にしても、海にしても、地中にしても、月にしても、星にしても、きっと人間は探し出すに違いない。人間の好奇心には終わりがないからね。神様は考え抜いたあげく一つの名案を思いついた。そして手を打って高笑いするとそのまま隠れてしまって未だに見つけられていない。そこにいくには本当に真っ直ぐな心が必要で、誰もが途中で化かされてしまうのさ。神の光のまやかしでね」「なに。教えて。それはどこなの?」「この世界の万物の中にだよ。もちろん人間の中にもね」「じゃあ万物は神なの?」「いいえ。万物は万物の摂理で動いている。万物に隠れるとは、その摂理の裏側に隠れることさ。奥の奥にね。人は摂理に化かされて世界の深みに到達できない」「ねえクルル。そのたとえ話の意味は?」「そうね。古森はいつでも人の中にあるということだよ。成長の種として潜み、いつか一本の樹木となって森を形成していく力が人の中には眠っている。そういうこと。灯る炎は魂の中にある光。それは決して電気の光とは違う。強くなったり、弱くなったり、揺らめいて消えそうになりながらも消えず、古代からの古い古い歌を歌っているということ。おまえにも見えたんだろう?」うん。見えたよ。わたしが導く小さな眷属の姿が……それから十五年後のこと。「母さん。母さんはどうして冬になるとロウソクを灯すの?」「それはね。忘れないでいるためよ」「何を?」「大切なもの」それって歌?それとも冬になるとやってくる影?ロウソクの炎は昔からぼくの子守歌。それは遥か遠くから聴こえてくる誘惑の歌。いつからかぼんやりとした影があらわれて、母に寄り添うようになった。今日は姿までよく見える。女の子だ。「母さん。母さん。愛しているよ」「あら。私もおまえを愛しているよ」ううん。その女の子が言ったんだ。母さんのことを愛しているって、そしてぼくの事もね。ほら、女の子が笑っているよ。思い出せないけれど、ぼくの知っている子だよ。「Smiles on thee, on me, on all,Who became an infant small,Infant smiles are His own smiles;Heaven and earth to peace beguiles.私にも あなたにも 誰にも神は微笑をくださった無垢な微笑みは 神の微笑みそして天地を安らぎが包む ・・・ブレイク(ゆりかごの歌)」 …おわり