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怒りと言葉についての考察


メーサイの国境

タイとビルマ(ミャンマー)の
国境に立つイミグレーション

予想だにしない干しブドウの二段攻撃を無事にしのいだことで、私は大きな安堵感に包まれ、空になった水のボトルを、手前の座席に設けられた網のポケットのなかに収めるべく、前屈みになった。


そのときである。


網を引っ張り、そこに空のボトルの底が入ったとき、突然の急ブレーキでバスが大きくバウンドしたではないか。


思わずボトルから手が離れた瞬間、ボトルの底が網にはじかれ、勢いよく空中へと飛び出したのである。


それは絶妙のタイミングであった。


ボトルは通路を飛び越え、窓側に座っていた男性の頭をポカ~ンと直撃したのである。


やばいと思ったさなか、深い眠りに落ちていたその男性は、がばっと飛び起き、私と目が合うと阿修羅のごとき面相を浮かべ、苦々しく睨みつけてきたのである。


これはおそらく、相当怒っている顔に違いない。


これは困った。


君子危うきに近寄らずを信条とする私は、諍いを好まない穏健な性格の持ち主である。


なんとか、この場を丸く収める術はないものかと、私の脳はめまぐるしく計算をはじめる。


とっさに私は周囲をきょろきょろと見回し、手のひらを上にして、いったいどこからボトルが飛んできたのか、さっぱりわからないというアピールをしたのだが、件の男性は私をキッと睨み据えたまま、視線を動かそうともしない。


どうやらごまかせる雰囲気ではなさそうだ。


もしかしたら男性は、私がボトルをふざけて投げつけたと思い、怒り狂っているのかもしれない。


とすれば、まずは誤解を解かねばなるまい。


男性よ、私はボトルなど投げつけてはいない、これは事故なのだ、責められるべきは急ブレーキを踏んだバスの運転手であって、断じて私ではないのだ、然るに君のその悪鬼のごとき形相はあまりにも恐ろしくこの世のものとは思えないから、やめたまえと、相手をなだめる弁明の言葉があれこれと浮かんでは消えていく。



しかし、いや、弁明より先に謝ることが肝要ではないかと、私は思い直した。


日本語が通じるなら「すみません」と言えばよいのだが、怒りをあらわにしている男性の容貌は、日本人とはとても思えない。

タイ語なら「コートー」だが、タイ人でもなさそうだ。


では、いったい何者であろうか、見たところ東洋系に間違いはなさそうだ。


中国語なら「対不起」、韓国語なら「チェソンハムニダ」だが、相手が中国人だと思って中国語を使ったり、韓国人だと思って韓国語を使っても通じないときは、相手をよけいに怒らせる結果になるかもしれない。


話す言葉と国籍が噛みあわないのは、なんとも居心地が悪いのだ。


そういえば昔、「インド人が教える中国語」という看板を見かけたことがある。


それを見て、私はふと首をかしげた。


「インド人が教えるインド語」とか「中国人が教える中国語」なら理解できるのだが、なぜにインド人が中国語を教えるのだろうか?


インド人が教える中国語講座というのは、なんともシュールな響きがあって素敵なのだが、果たして生徒は集まったのかと、余計な心配をしたものだ。


ついつい話がそれたが、海外においては、どの言葉を選んで話しかければよいのか、けっこう悩むものなのだ。


怒れる男性が何人なのか、考えに考えたあげく、私は無難な言葉を選ぶことにした。


「エクスキュースミー」、にっこりと爽やかな微笑みを添えることも、もちろん忘れない。


それでも男性はまだ怒りが収まらないらしく、今にも通路を渡って私に飛びかからんばかりに興奮している。


そ・それほどまでに怒らなくてもよいではないかと思いながらも、私はモナリザのような微笑みを絶やさない。


そのうち、男性の隣に座る伴侶らしき女性に声をかけられ、ようやく男性は自らの過ちを悟ったのか、先ほどの鬼のような形相からは想像もできない人懐こい笑顔を見せ、空になったボトルを私に返してきたのである。


言葉は通じなくても、人はわかり合えるのだ。


私は再び深い安堵感に満たされ、全面革張りのシートに深く身を沈めるのだった。


隣りの美人女子大生も、私の大人の対応に、きっと瞳を潤ませて、感じ入ってるに違いない。


ふと彼女の方に視線を向けると、案の定彼女は私をじっと見つめており、そしておもむろに口を開いた。


「あのぅ、すみませんけど、そこの席、後ろと変わってもらえませんか?」


え? 私は我が耳を疑った。


「彼と座席が離ればなれになっちゃって・・・」


いかにも申し訳なさそうな言葉とは裏腹に、相変わらず天使のごとき美しい微笑を浮かべた女子大生に耳元でささやかれ、私は深い奈落の底に突き落とされるかのような気分に陥るのだった。


獅子は我が子をわざと奈落の底に突き落とし、そこから這い上がってくる強さをもった子だけを慈しみ育てると言うが、もしやこれは、彼女の私に対する愛情の表れなのだろうか?


いや、多分、違う気がする。


後ろをおそるおそる振り向くと、頭髪が明らかに後退しかけている青年が、彼女に負けないぐらいのにこやかな笑みを浮かべて、私をのぞき込んでいるではないか。


それはないだろう、青年よ。


干しブドウパンまであえて食した私の、男の純情はどうしたらよいのだ?


美少女とこれからはじまるはずだった二人の物語は、この先どう綴ればよいのだ?


しかも、君はまだ若いのに、なぜそんなに見事にはげているのかね?


私の脳裏にはさまざまな雑念が浮かび、彼女との楽しかったひとときが、走馬灯のように過ぎていくのだった。


彼女に促され、とぼとぼと席を替わる私の背中には、きっとそこはかとない男の哀愁が漂っていたに違いない・・・と、思う。

こうして、私のつかの間の恋は終わりを告げ、国境の町メーサイを目指し、VIPバスは黙々と白煙を上げながら走るのだった。



ひとまず完


腹筋崩壊に注意! 日本語にしか聞こえないバーレーンのサッカー中継!


友人に教えてもらってはじめて知ったのだけど、ネットでは有名な動画なんだね!

劇的な幕切れとなったバーレーンのサッカー中継なんだけど、4分にも渡る中継が日本語にしか聞こえなくて、大笑いできるよ!

アラビア語って、日本語の音感に近いんだね。

もちろん意味はまったく違うのだろうけど、日本語に当てはめるとめっちゃおもろくて、お腹が痛いほど笑っちゃいました。

笑い過ぎに注意してね。

では、どうぞ!

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多少強引な字幕ではあるけれど、これだけ笑わせてくれる実況中継ってのもすごいよね!

ちなみにアラビアに行くと、「アンタ、アホヤ、アンタ、アホヤ」と握手を求められることがあるんだってさ。

アラビア語の「アンタ」は「あなた」のこと、「アホヤ」は「兄弟」のことで、「君は兄弟だ」という親しみを込めた言葉なんだって!

発音が似ていても、意味が異なる面白い外国語って、けっこうたくさんあるよね。

タイ語にも、もちろんあるよ!

その話はまた改めて記事にするね。

ついでにサッカー面白プレー集!


サッカーの珍プレー集も、ついでにどうぞ!

コントにありそうなネタなんだけど、実際に起きるってのは面白いねぇ!

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マリリンモンロー? アインシュタイン? どっちに見える?


この下の画像は誰に見える?

アインシュタインかマリリンモンロー


かなり前からネットで盛んに取り上げられている画像なんだけど、最近になって、またよく見かけるようになった画像だよ。

実はこれは、近眼かどうかを見分けるための画像なんだ。

メガネをかけている人は、メガネを外してから、もう一度画像を見てみてね。

あら不思議!

近眼の人にはマリリンモンローに見えて、近眼でない人にはアインシュタインにしか見えないんだよね。

マサチューセッツ工科大学が発表したハイブリッドイメージという特殊技術がほどこされた画像なんだってさ。

人の視覚的錯覚をもとにして、一つの画像が見る距離によって、違う画像に見えるってわけだね。

視力が健全な人は、画面から距離を置いて眺めてみれば、アインシュタインがじょじょにマリリンモンローに変身していくはずだよ。

これも一種のトリックアートってことになるのかなぁ。

タイ人と微笑みについての考察


タイの女子大生の制服

タイトな超ミニスカートはタイの女子大生の制服!

そのときである。


私の眼底に、隣に座る女性の艶やかな二肢が飛び込んできたのだ。


紺色のミニスカートからのぞく艶めかしい素足は官能美に満ち、私の脳髄を刺激して止まない。


清楚な白のブラウスに、大胆なスリットが入った膝上二十センチほどの紺色のミニスカートは、言わずと知れたタイの女子大生の制服である。


なぜかタイでは、どこの大学でも、女子大生はみな同じ制服を着ることを義務づけられている。


学校に登校することのない休日であろうと、外出するときには必ず制服を着なければいけないらしい。


それにしても、いつも思うのだが、タイの女子大生の制服は、あまりにもセクシーである。


いったい誰が、こんな極度に短いミニスカートを制服に定めたのかは知らないが、そこにエロチックな思惑が潜んでいることは、間違いないだろう。


その人物に対して、惜しみない拍手を送りたいと思っている男性は、私だけではないはずだ。


すぐ隣に女子大生が乗っていることにはじめて気づき、私の頬は知らず知らずのうちにゆるむのだった。


しかし、美脚だけで私は騙されない。


タイ人はおおよそ美脚の持ち主なのである。


細いながらもセクシーさを損なわない美しい脚をもっていても、視線をあげていった先にあまりにも個性的な容貌を見出し、目を背けざるをえないことだってあるのだ。


それでも私は、蜂が蜜に誘われるように、おずおずと顔を上げた。



その瞬間、女子大生と目が合い、彼女は柔らかな微笑を浮かべるのだった。


こ・これはなんとしたことか・・・、予想を遥かに裏切る天使のごとき美しい微笑ではないか。


タイはほほえみの国である。


日本人であるなら、「こんにちは」とか、あるいはもうちょっと気のきいた言葉として「あ、どうも」とか声をかけながら会釈でもするところだが、タイにはそのような習慣はない。


元来タイには、人と会ったときに挨拶の言葉をかける習慣がないのだ。


では、どうするのか?


微笑むのである。


目が合った瞬間に、にこりと微笑を浮かべ合うのだ。


タイ人がフレンドリーとされる由縁も、ここにある。


観光客と視線が合うと、たいていのタイ人は優しい微笑を口元にたたえるのである。


男に微笑まれても、こいつはなにか悪巧みしているのではないかと勘ぐるだけなのだが、可愛い女性に微笑みを返されて、悪い気がする男性は、まずいないだろう。


自慢ではないが、男とは実に単純な生き物なのである。


女子大生の浮かべる美しい微笑に、私もぎこちない笑みを返す。


そのとき、私たちの間には、二人だけにしか感じ取れない濃密な時が流れ・・・ていたかどうかは知らないが、私はそこになにやら運命的なものを感じ、一人で悦に入ったのだった。


この出会いを運命的な出会いへと高めるためには、なにかきっかけがほしいところだ。


さて、どう声をかけるべきか!


今日の天気を持ち出すのは、いかにも芸がなさ過ぎる。


「可愛いですね」と軽く切り出すのも、それが第一声となると、なにやら「ちゃらたん」ぽくて抵抗がある。


はじめの一言をどう切り出すべきか、心の中でうんうんと唸っている私に、彼女が声をかけてきた。


「パン、美味しそうに食べてましたね」


へ? いや、けしておいしいなんて代物ではないのですがと口に出しそうになり、私はあわてて言葉を飲み込んだ。


向こうが切り出した言葉を、けして否定から入ってはいけないのは、ビジネスの基本である。


ビジネスも恋愛も、まずは相手に好感度をもってもらうことからはじまるのであり、考え方に大差はないのだ。


この場合、彼女が「美味しそうに食べていた」と感想を述べたわけであり、私は「はい、美味しかったです」と、彼女の意見に同意を与えることが、大切なポイントなのである。


私はさらに一歩進め、「そうなんですよ、タイのレーズンってやつは、このうえなく美味しいですよね」と、彼女の国の食べものを誉めることを忘れない。


これで、彼女が私に寄せる好感度は、著しく上がるはずなのだ。


「そうなんですね、私、レイズンが苦手なの。じゃ、このパンも食べて下さい」


彼女からパンを手渡され、私は自分の顔の筋肉が、にわかに強ばったことを悟った。


「どうかしたんですか?」


彼女が怪訝そうな表情を浮かべて、私の顔をのぞき込んでくる。


いかん! こんなことぐらいで、せっかく芽生えた二人の愛の絆を断ち切るわけにはいかないのだ。


「いえ、なんでもありませんよ、いやぁ、うれしいなぁ、アハハ・・・」


私は爽やかな笑みをまとったつもりなのだが、彼女から干しブドウパンを受け取ったときには、かなり引きつっていたに違いない。


な・なぜなんだ、干しブドウよ。


なぜにおまえは、そんなに私を苦しめるのだ。


干しブドウをきつく睨みつけていると、「あ、どうぞ、遠慮せずに食べちゃって下さい」と、彼女が再び天使のように無邪気な微笑みを浮かべて見つめてくるではないか。


もはやあとで食べますと、ごまかせる空気ではない。


私たちの物語を次に進めるためには、私が美味しそうにパンを食し、彼女にうれしそうに礼を言うしかないのだ。


善行を施したという満足感に浸る彼女の笑みを横目に、私は再び干しブドウパンにかぶりつくのだった。


もう、こうなったらやけくそである。


憎き干しブドウとパンを口のなかに放り込んでは、水で無理やり胃のなかに流し込むだけである。


例によって噛むことなどできはしない。


でも彼女の手前、噛んだふりだけはしなくてはならない。


先ほどよりも難易度が上がっているように感じられるのは、気のせいだろうか。


これはなにかの罰ゲームなのだろうか?


そうこうしているうちに、パンはいよいよ中央にとぐろを巻いて待ち構えている干しブドウの固まりを残すのみとなった。


そのとき私の脳裏には、パンを間違えて落としてしまうという巧妙な偽装工作がひらめいていた。


まさか落としてしまったものを、食べろとは言わないだろう。


我ながら素敵なアイデアである。


私はじょじょにパンを持つ指の力を抜いていき、もう少しで指の狭間からパンがすり落ちていくと思った瞬間、「あ、落ちそうですよ」と、彼女がにっこりと微笑むではないか。


いちいち人が食するところを、じっと観察していなくてもいいだろうにと心の中では毒づきながらも、美少女の見せる微笑に抗う術もなく、私はぎこちない愛想笑いを浮かべながらも、すべてを観念して、干しブドウの固まりを一気に飲み下したのである。


思わず喉元にせり上がる嘔吐感を必死にこらえ、額に汗を浮かべながら、水をがぶ飲みした。


彼女は大きな瞳をさらにまん丸に見開いて、なにがおかしいのかクスクスと笑っている。


ホッと一息ついたのもつかの間、ほんとうの悲劇は、その直後に訪れたのである。


つづく


前回はサプライズ・プロポーズの数々を紹介したけれど、クリスマスが間近に迫った今回は、クリスマスにちなんだフラッシュモブを取り上げるよ!

「フラッシュモブ」は、訳すと「集団どっきりパフオーマンス」ってとこかな。

Youtube で「flash mob」で検索すると、たくさんの面白動画が出てくるよ!

街中に響く第九交響曲「合唱」


これはもう個人的に、大好きな動画なんだ!

昨年、友人に教えてもらってから何度見たかわからないけれど、何度見ても涙がこみ上げて来ちゃうんだよね。

スペインのカタルーニャにある広場のなかに佇むコントラバスをもった一人の紳士。

彼の足下に置かれたハットに、少女が小銭を入れると、奇跡のはじまりだよ!

コントラバスの重低音が静かに流れるなか、広場に集う人々は、はじめは冷ややかな視線を送っているのだけれど・・・。

次から次へとあちらこちらから楽器を手にした人たちが集まり、日本の年末には欠かせない聞き覚えのあるメロディーが奏でられるんだ。

ベートーヴェンの第九交響曲「合唱」の第四楽章だね。

そのあと、なにが起きたのかは動画をご覧あれ!

この動画を見ると、いつも思うことがあるんだ。

それは、言葉やイデオロギーでは人は救えないけれども、音楽には人を救う力があるんじゃないかってこと。

ときに何万言の言葉を費やすよりも、音楽は能弁に、人の心に強いメッセージを残すんじゃないかな。

笑顔と音楽、それさえあれば、世界は平和に保たれるのかもしれないね!

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東北支援のため羽田空港で催された感動の第九!


次も第九なんだけど、こちらは震災と原発の事故からの復旧を目指す東北を支援するために、羽田空港にてチャリティーイベントとして行われたフラッシュモブだよ。

空港に集う人たちには、なにが起きているのか、さっぱりわからないといった様子が、よく伝わってくるよ。

ベルを使ってスチュワーデスさんたちが奏でるジングルベルの音色。

やがて楽器をもった人たちが少しずつ増えていき、第九交響曲がはじまるんだ。

そして、合唱のパートになると・・・。

まさにドッキリの展開やね!

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サンタクロースからの贈り物! 3千万回近く再生されている人気動画!


次は、12/8日に公開されるや、世界中で話題となり、すでに三千万回近く再生されている超人気動画だよ!

カルガリーを拠点とする航空会社・ウェストジェット航空が仕掛けた心温まるドッキリとは!?

ハミルトン空港とトロント空港のターミナルに、サンタクロースとのネット会話ボックスを設置。

スクリーンの向こうにいるサンタクロースに、乗客たちは次々に、クリスマスに欲しいものを伝えていくよ。

子どもたちはもちろん、大人も欲しいものを伝え、笑いながら搭乗口に向かうんだ。

そして、ほんとのサプライズはこれから!

ウェストジェット航空の社員たちが街に飛び出し、乗客たちが伝えた欲しいものを買い揃えていくよ。

目的地のカルガリーに着く前に、クリスマス・プレゼントをすべて用意しなくてはいけないから大忙しだよね!

飛行機が無事にカルガリーに着き、手荷物受取所に向かった乗客たちが目にしたものは・・・。

自分たちの名前が書かれたクリスマスプレゼントの数々!

まさかと驚く乗客たちの表情が、ほんとに面白いよ!

おもちゃもあれば、スマホやデジカメ・iPod、コンピュータゲームなどなど、事前に欲しいといった商品が、すべてプレゼンとして用意されているとあって、乗客たちからこぼれる笑顔と涙に、見ているこちらまで幸せな気分になれるよ。

大型テレビをもらっている人もいるんだけど、これはラッキーだよね!

思わずプレゼントに、うれし泣きする気持ちはわかるけどさ!

その傍らで靴下をもらっている人の心境ってどうなんだろうね?

なにが起きるかわからないから、いつでも夢は大きく語った方がいいんだろうね!

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聖なるクリスマスの夜、あなたにも奇跡が起きるかもしれないよ!

レイズンと干しブドウの違いについての考察


朝からなにも食べておらず、空腹感は頂点に達している。


目を閉じたまま、少しまどろんでいると、バスの添乗員に肩を揺すられ、パンとジュースを手渡された。


パイの皮に包まれたパンには、とぐろを巻くようにチョコレートがのせられている。


私はいつものように、賞味期限の書かれたスタンプを見えないように指で隠し、パンにかぶりついた。


なぜ賞味期限のスタンプを隠すのかと言えば、VIPバスで出されるパンは、たいてい賞味期限が切れているからである。


実際のところ、賞味期限が二日や三日や五日過ぎていようとも、それでお腹を壊すなんてことは、まずありえない・・・と、思う。


これまでもVIPバスに乗るたびに何度もトライしてきたが、一度も当たったことなんてないから、きっと大丈夫のはずだ。


それでも賞味期限が切れていることを確認してから食べるのは、一抹の不安に襲われるだけに、精神衛生上よろしくない。


賞味期限が切れていようがいまいが、腹が減ってたら食べるより仕方ないのだから、いちいち確認するだけ無駄なのである。


だったら、はじめから賞味期限など見なければよいのだ。


それが、経験から学んだ生活の知恵ってやつだ。


そうすれば、なんでもおいしく食べられる・・・、ん?


パンを一口かじった瞬間に、私の全機能は緊急停止した。


こ・これは、なんたることか・・・・・・。



チョコレートだとばかり思っていた黒い固まりの正体は、レイズンだったのである。


「レイズン」と書けば、なんとなく美味しそうなイメージが浮かぶのだが、日本語に直訳すれば「干しブドウ」である。


「干しブドウ」という響きには、おいしさのカケラもない。


私は干しブドウが、大嫌いである。


好き嫌いはほとんどなく、虫以外のたいていのものは口にできる私が、唯一苦手にしている天敵ともいえる存在が、干しブドウなのだ。


思えば干しブドウとの戦いは、小学生時代にさかのぼる。


二週間に一度ぐらいの割合で、給食に出される干しブドウパンが、私は口をもききたくないほど大嫌いだった。


まぁ、干しブドウはしゃべらないから、口をききたくてもきけないのだが、そんなことはどうでもよい。


とにかく、嫌いなものは嫌いなのだ。


干しブドウを口にした瞬間に広がる、あの甘酸っぱい初恋らしき味が、吐き気を催すほどに苦手なのだ。


干しブドウを噛んだときの、あのぐんにゃりとした食感が、総毛立つほどに気味悪いのだ。


だから私は、給食で干しブドウパンが出されると、服をまくってそれをお腹のあたりに隠してはトイレに直行し、細かく千切っては水に流したものだ。


ときどきトイレが詰まり、校長先生が朝の訓話で「トイレに食べるものを流してはいけません」とのたまっていたが、干しブドウパンが出ない日でも、トレイが詰まることは度々あったから、きっと私のせいではないはずだ。


細かいことを気にしないのが、子供時代から変わらぬ私の性分である。


しかし、ある日、いつものようにお腹に干しブドウパンをしのばせ、トイレに向かおうとする私を担任が呼び止め、私のささやかな悪事は、白日ものとにさらされてしまった。


担任の説教を聞きながら、私は干しブドウに対する憎しみを、ますます募らせたのである。



そんな子供時代の美しい思い出が、干しブドウが口のなかにあると気づいた瞬間に、走馬灯のように甦ったのである。


あの忌まわしい干しブドウが、こともあろうか、今、まさに口中にある。


干しブドウ特有のあの吐き気を催す甘酸っぱさが、口内を情け容赦なく侵略してくる。


次の一手をどうすべきか、私は思案に暮れた。


吐き出すという安易な解決策はあるものの、それではこの耐えがたい空腹を満たすことができない。


それに一般の席よりも300円も高いVIP席に座る私が、そんな醜態を一般庶民の目にさらすことにも抵抗がある。


ならば、選択肢はひとつしか残されていない。


私は噛むことをやめ、一気に干しブドウとパンを、嚥下した。


いかに凶暴な干しブドウといえども、無理やりにでも胃のなかに抑めてしまえば、もう恐れることはないのだ。


喉を通過するときに、干しブドウのぐんにゃりとした食感をかすかに感じるが、それでもかまわずに一気に飲み下してしまえばよいのだ。


背に腹は代えられない。


私は残りの干しブドウを手で千切っては口に放り込み、そのまま一度も噛まずに飲み下す作戦に出た。


できれば干しブドウだけつまんで出したいところだが、VIPの私にそんなみっともない真似はできないのだ。


耐えがたきを耐え、忍びがたきを忍び、私は襲い来る干しブドウを次から次へと丸ごと飲み下した。


そして、ついに最後の一粒を嚥下し、私は干しブドウに打ち勝った余韻に浸りながら、シートに深く身を沈めるのだった。



まさかこのあと、さらなる不幸が私を襲うことになるとは、その時は予期もしていなかったのだ。


つづく