宗教二世として育った私の苦悩は

大きく2つだった。



①何が真実なのかよく分からない。

身近な周りの大人の二面性に引く。


②宗教がらみの人間関係のせいで、

自分の主張ができない。



…これって、かなり最悪なことで



要するに自分がどう振る舞っていいのか

いつも状況見ながら決めなくてはならないし



「ナチュラルに自分でいられないのがふつう」

だった、ってことです。



私の場合

自分のことは分かっていたというか

子どもだったからナチュラルに自分だったんだけど



それに対して全ダメ出し、

みたいなの食らうので



うるさく聞かされる「教え」の解釈と

大人たちの態度との矛盾に

とても混乱していたのでした。



まず



宗教で教えられる「良きこと」と

実社会生活は、ほとんど一致しない。




簡単な話



誰にでも挨拶しなさい!



とうるさく言われていたけどさ



誰にでも挨拶って

…ぶっちゃけしないじゃん⁉️


会釈程度とか


顔見知りでもあえて

挨拶しないことの方が親切、

てこともあるわけじゃん⁉️



そーゆーの、人は空気読んで

やってるものなんだけど



我が家は…というか

私はあまりに


「こうすべき!」


というのをうるさく言われ過ぎていて

子どもだったし真面目だったし

親怖過ぎたから



ちゃんとやってたわけなのよ。

親が見ていなくても。



そうすると、ちまたでは私

誰にでも声かける変な子扱い。



生活のベースがいちいち

こーゆー感じなわけ。


でさ


「あの子はマイペースでちょっと変わってるね」


なんて言われるわけなんだけど



違うからー‼️


って、今なら声を大にして言いたい。



あのさ、大人は分かってやってるわけ。



社会の常識はこう、

「教え」ではこう、って。



だから人や場所によって自然に

態度を変えることができる。


けどさ


社会も常識も人間も

よく分かってないところに

宗教の教えを当たり前として

刷り込まれてる子どもが



あちこちで別の顔

できるわけないじゃん‼️



ピュアだから、おかしい。

ピュアゆえに、おかしい。



身近で「教え」をたたえ推奨する大人は

既存概念があるわけじゃん。



その上で

「こんな考え方は素晴らしい」


て思うから宗教にハマるし

理想通りの自分にならない憧れがあるから

教会に通い続ける。



子どもの身としては

「意味がわからない」というのが

一番正確な気持ちでした。



いや、そのままでよくない?っていう。。



挨拶の話で言うと

私に挨拶しろとうるさく言う母は



自分が苦手な人に

挨拶なんかできるわけないでしょ‼️

あの人は私のことを嫌ってるんだから‼️

絶対にこっちから挨拶なんかしてやるもんですか‼️



…みたいな人でした。



あのさ、自分ができないこと

子どもに押し付けるの

やめてもらっていいですか〜笑い泣き



という感じ。



こっちは教会でもあれこれ聞かされるし

親からもあれこれ聞かされるし


それ鵜呑みにして

学校で素直に行動するでしょ❓



そしたらまぁ、いじめられるっていうか



「いい子ぶってる」とか

「先生に気に入られようとしている」とか



全然いいことないわけ‼️



だからって本気でいい子なわけでもないから

先生に好かれるわけでもない。



ただ、一時的にみんなの前で褒められて

もっとみんなからからかわれてハブ




やりづれぇこと、

このうえなし。


子どもってド素直だから

大人がサラッと発揮する二面性を理解できない。



家では家で

学校では学校で違う視点にさらされて

色んなこと言われたらさ


…参るよね。



私はマイペースだったのもあったけど

なんかもう、他人をあきらめたよね。



それでもなんとかやってたし 

友達もいたし、最悪ってわけではなかった。



ただ、自分の精神のベース、みたいなものが

本当に分からなかった。



「心の平安」を他人と共有できる場所

っていうのかな、


家庭であることが多いのかも知れないけど

精神のホームベースが、なかった。



教会はおばあちゃんち、みたいな距離感で

自由に出入りできる気のいい場所ではあった。



支所だったから裏にある鍵で

誰でも入れた。



精神のベースなんて

ある人の方が珍しいと思ってたし 

親なんてみんなそんなもんだと思ってた。



だから活字中毒に

なったのだ。


本が読めるようになってからは

色んな考えを食べた。



自由で楽しくて面白かったし

「本が好き」な私は、親からも評判が良かった。



まわりには



「思想」と「現状」の狭間に

矛盾を抱えた大人ばかりだった。



教会ではいい人、

他では社会のクズ



みたいなおじさんおばさんもいたし

子どもの頃から知ってる人だから

疑ってないんだけど



なんつーか、徐々に知るわけよ。



あ、お金に困ってるんだ。とか。

仕事がなくて飲んだくれてるんだ、とか。



そんな人ばかりではないにしろ

色んな人がいるにしろ



親は教会で世話係を

ガッツリ無料奉仕していたから



なんだろ、教会側の人間てとこが大きくて



それもあってか

「ちゃんとしろ」を求められるわけね。



そのちゃんと、って

例えば


みんなと仲良くしろとさ

挨拶しろとか

用事は先陣切ってお前が動け



的なやつ。



リーダーシップを取れる人間に、

みたいな教育だったのかな。



母は元幼稚園の先生だったから

教育面かなり厳しくて


教えを利用して

私たちを教育してたところもあった。



若くして仕事辞めたストレス?で

家で試してた、みたいな感じだった。



仕事もしてないし子ども嫌いだったし

自己顕示欲のエネルギー余ってたんだと思う。



「自分が好きなことをする」

方向で発散すればよかったのに


「いい子育てをするいいお母さん」として

認められなくてはいけなかったんだ。



純粋に

生きてて楽しいね

ご飯おいしいね

幸せだね



じゃ、許してもらえなかった。



いつも何かを目指せと言われていたし

結果がよければ次はもっと!

ダメならダメだろ!



って、



よかったね、楽しかったね。



ていう生きる喜びのベース、みたいなものが

家庭にはなかったと思う。



だからって不幸だと思ってないし

世界のありとあらゆる不幸を引き合いに


自分は恵まれているのだから

世のため人のために役立つ人間になれ



そう、言われ続けて育ったのよ。



そんな中

自分は自分の内面世界を構築しながらも

周りに影響されずにはいられなかった。



…気づいたら、自分で自分の幸せを

叶えることすら、知らない大人になっていた。



夢を叶える=有名になる、目標を達成する


それは、シンプルに

自分がしたいことをするって意味ではなくて

  

タイトルを取る、みたいな意味。



親からすれば


あの子はこんなすごいことをした!

子育て、大成功だ!



と言えるのかもしれない。



ただ、当人からしてみれば

見栄とプライドに踊らされて疲れ果て



ただ息をしていることすら苦痛で

死ぬのを待ってるみたいな気持ちで生きる、



可哀想な若者になっていた。




ま、15年前の話。

わりと最近までこんなだったわけ。



でさ、例がありすぎて

書けなかったんだけど 



宗教とお金って密なのに変なのよ。



変な受け取り方してる人が

変になってるだけなんだけど



同じ支所に、街で一番

ビジネス大成功してる人もいたのに

うちの親は、お世話しながらこきおろしてたの。



ますます訳がわからない。



それが腑に落ちるのは

ビジネスの勉強を始めてからやっとのこと。



宗教はやめ、親とも縁切り

色々あって45歳。



え、これって


一番自分に戻りやすいじゃん❗️びっくりびっくり照れ



と思ったのは

「開業届を出す」ことから始まった

自分で仕事を生み出して稼いでもいい、

という許しの概念だったんだ。





日本は自由、本当に自由なの。

信教の自由もある。



だから。



親や学校や社会から教えられたものを

無理して信じ続けるよりも



自分を信じてお金目指すことの方が


よほど、健全だと思ったの。



開業・起業・フリーランス…

当たり前の時代。



だけど、よーく考えてみて。

一生のベースを作るのは、自分。



自分を知り、自分で決める。



そんな、当たり前で難しいことが

人生を変えてくれる。



しかもそれ、合法なんだから爆笑



概念を売ることさえ合法だから

自分を知らないと

自分に裏切られる。



物事や世の中が

よく分かっていなかった私の

人生の手引きともなった



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何を信じて…ってそれ、

自分しかいないでしょおねがい