江川力平さんは明走会のレジェンドの一人です。70歳まで別府大分毎日マラソンを3時間半を切るタイムで走り続け、サロマ湖ウルトラ100キロマラソンも74歳で完走されました。81歳を迎えた今も毎日8キロ程度のランニングを欠かさない江川さんですが、「ガンガン走っている時には見えなかった光景を目にすることができて、今の方がむしろ楽しめている」と語ります。その心境を語ってもらいました。
─江川さんは2026年1月に81歳になられたとのことです。かねて「走道」と言って、真摯にランニングの練習に取り組まれていた姿が印象的です。その陸上競技の原点はどこにあるのでしょう。
陸上を始めたのは中学校から。中学1年の2学期から高校1年の1学期まで陸上部でした。
当時、NHKが「中学校放送陸上」というものをやっていてね。各都道府県で記録会を行って、そのタイムをNHKが集計して全国ランキングを出すというものです。1500mだと5分を切らなければランキングには入れないのですが、俺は3年生の時でも5分4秒でしか走れなかった。結局、放送陸上の記録会に出たけれど惨敗でした。陸上部ではキャプテンだったのだけどね。
それが高校に進学して陸上部に入ったら、中学の時とは練習が全然違うんだよ。中学の時はコーチがいませんでした。陸上競技マガジン(現在もう発刊)を織田幹雄さん(オリンピックの三段跳びで金メダル)が編集されていて、それを参考に自分で組み立てて練習していた。それが高校に行ったら専門の先生がいるわけよ。それでその人の決めたメニュー通りに練習させられる。1500メートルの選手だったら、3000メートルを全力で走らされるわけ。そうしたら1500メートルなんて屁のかっぱになっちゃう。
2カ月ほどしてとある競技会に出たら、一番速いのは3年生で4分20秒ぐらいで走っていた。俺は1年生だけど、4分40秒ぐらいで走れた。高校に入ってたった2カ月で20秒以上タイムが縮まったわけだよ。練習の仕方によってこれだけ違いが出るのだから、おもしろいと思ったよ。
でも唐津東高校というのは進学校でね。九州大学に現役で10人合格させるのが悲願だった。俺は勉強もできたから、その候補に入っていた。そうしたら、担任の先生がわざわざ家にやってきて、「江川君は陸上部をやめさせてください」と親父に言うわけ。親父も学校の先生をしていたから、説得できると思ったんだろうね。「勉強とスポーツは両立できると言うけれど、そんなに簡単じゃない。どちらかに専念させた方はいい」と。すると親父も先生に同意して、俺に意見してくるようになったから、結局1学期で陸上部はやめた。
1年浪人して九州大学に入ったら、浪人の時に一緒だった男が、「ワンダーフォーゲルというおもしろいものがある」と言ってきた。俺は武道を何か1つやりたいと思っていたので、空手をやろうかと考えていた。陸上部も考えたけれど、陸上は高校1年の1学期までやったからもういいかと思っていたら、「ワンゲル部はどうか」というので、「それはなんや」と聞いたら、「山に行くんだけど登山部じゃない」と言う。「どんなことをするのか?」と聞いたら、「トレーニングは(福岡市中央区にある)大濠公園で走り込んでる」と言う。それで興味を持って、ワンゲル部に入ることにした。
トレーニングは大濠公園に行って2周、4キロを走るのだけれど、当時のワンゲル部の記録を作ったよ。4キロを13分45秒で走ったからね。この記録はしばらく破られなかった。でも山に興味があったわけじゃなくて、トレーニングが好きでやっていただけだから、ワンゲル部ではあまりいい部員じゃなかったね。
─マラソンを始められたのは社会人になってからですか。
そう。50歳を過ぎるまで、ランニングはずっと続けていたのだけどね。
52歳の時にね、お袋が亡くなった。親父はずっと入院していて、喉に穴を開けて延命治療をやっていたので、そう長くはないと思っていたのだけれど、その前にお袋がくも膜下出血で亡くなった。ものすごく元気だったんだけれど、看病疲れもあったのかなあ。それがもうショックでね。これから親孝行せないかんと思っていたところやったからね。
それから3カ月後には親父も亡くなって。その後しばらく立ち直れなかった。
そうこうしているうちに、高校時代からの友人である内山守太(もんた)君が「浦安市のマラソン大会に申し込んだから走れ!」と言ってきた。もんた君は千葉県浦安市に住んでいて、たまに顔を合わせていたので俺が落ち込んでいるのを分かっていたからね。「マラソンなんて走れるか」と言ったら、「ハーフだから大丈夫だろう」と言ってくる。「ハーフどころか、10キロも走ったことはないぞ」と答えたら、「おまえは陸上部だったじゃないか」と言われて。
それで、3カ月ほど練習して大会に出た。その時に紹介されたのが津田昌利さんです。俺はその時1時間49分で走ったのだけど、「初めて走って1時間50分を切るなんてすごいね」って津田さんがおだてるわけですよ。みんなから「フルマラソンも行ける」とおだてられて、翌年の千葉県の佐倉マラソンにエントリーして。初めてのフルマラソンは3時間55分でした。
「何だ、フルマラソンでも走れるじゃないか」と思った。勤務先のシャープの走友会に入れてもらって、皇居で練習を開始した。走友会にはサブスリーランナーもいて、彼らと競争しながらだんだん速くなっていった。毎週水曜日は皇居を2周走って、お風呂に入ってちょっといっぱいやってという感じでしたね。
でも皇居ランだけでは足りないから、土日は合わせて30キロは走ろうと。そうしたら月に150キロは走れるわけですよ。するとタイムも少しずつ伸びていった。
サブスリーを狙って練習を重ねた
─明走会に入られたのはいつからですか?
明走会は2002年からだと思います。先に明走会に入っていた内山君に紹介されました。
明走会では色々な人と出会えた。明走会創設者の森部好樹さん、スポーツライターの夜久弘さん、月刊ランナーズの下条由紀子編集長……。ランニングの指導者の金哲彦さんも明走会に来られていた。
明走会は皇居ランを中心に、おもしろい練習ができました。皇居では、谷川真理さんが指導して走っているグループを下り坂で追い抜くと、「あのランナーに追いつけ」と指示が出て、すぐに抜き返されたようなこともありました。
明走会で練習をするようになって、タイムは面白いように縮まった。ところが、どうやっても3時間30分が切れない。3時間31分とか、3時間30分20秒とか。
そんな時に会社の後輩から、「金哲彦さんが千葉県佐倉市でニッポンランナーズというランニングクラブを立ち上げたので、そこで練習しないか」と誘われて、ニッポンランナーズに入りました。
ニッポンランナーズの練習は手応えがあった。何と、3分間隔のインターバルで400メートルを30本走るのです。1分で走れば2分休めるわけですが、サブスリーランナーはそれを80秒台で走る。俺はビリでもいいから何とか食らいつこうと、90秒ぐらいで走って、何とか30本やりきった。
そうしたらその1カ月後ぐらいにあったレースで、3時間21分の記録が出た。要するに、42キロを走るスタミナはあったけれど、スピードが足りなかった。それがインターバル練習によって、スピードが持続できるようになったわけや。
─江川さんはスピードランナーの印象がありましたが、ニッポンランナーズでの練習のたまものだったのですね。
400メートルのインターバルは実業団でも25本しかやらないと聞きました。それを30本やりきるわけだから、そこから先はもう記録もうなぎ登りですよ。3時間20分、19分と、走る度に記録を更新して、走り始めて10年目の62歳の時に、勝田マラソンで3時間10分22秒の自己ベストが出ました。
それで「62歳だけどサブスリー(注:3時間を切るタイムでフルマラソンを完走すること)を狙えるかな」と思って、10カ月後のつくばマラソンに照準を据えて、練習を重ねました。
ところがつくばの記録は、3時間11分台。3時間10分で走った後、10カ月練習して3時間11分台だったということは、あれだけ練習しても年齢的にはもう維持するので精一杯なのかと思った。サブスリーはもう無理だなと思うと、モチベーションが下がってしまった。
それで動機付けになるようなものがないかと考えていた時に、別府大分毎日マラソン(別大マラソン)の参加資格が変更されて、3時間30分以内の記録があれば出られるようになった。2011年からなので、ちょうど66歳の時です。
ランナーの登竜門のような別大マラソンに出られるのならと申し込みました。ところが、いざ出てみると記録は3時間30分6秒。3時間半以内での完走はできなかった。それでもその年は別の大会で3時間30分を切ったので、翌年も別大マラソンに参加して30分以内で完走しました。以来毎年別大マラソンに出て、69歳の時には3時間24分53秒と好成績を残せました。70歳でも3時間半を切りましたが、完走はそれが最後です。
71歳の時は40キロの関門に引っかかった。その関門を通過していれば、3時間半を超えてもゴールには到達できたのだけど。応援に来てくれた友達がゴールで待っていたのでちょっと残念でした。
72歳が最後の別大マラソンだったのですが、30キロの関門を通過した後、32キロぐらいのところで「もう歩道に上がってください」と止められた。もうこのランナーは、完走は無理だ、と判断されたのでしょうね。
─「サロマ湖100キロウルトラマラソン」にもよく出ておられましたよね。
サロマ湖100キロは2004年に初めて走りました。その頃はもうフルマラソンもガンガン走っていて、明走会の仲間、清水恵子さんから「江川さん、そんなに早いんだったら走ってみては」と誘われたのがきっかけです。
でもこの時は、70キロでリタイアしました。60キロの辺りで「このペースだと70キロの関門に引っかかります」と、先行していた清水恵子さんから声をかけられて、キロ6分ペースにペースを上げて70キロの関門は通過しました。でも、ウルトラマラソンなんて初めてだし、70キロも走ったことはなかったので、「もうやめてええわ」と大の字になって寝転んだら気持ちよくなって。少し行けばお汁粉が出るというので、そこまでは行って、お汁粉を食べて収容車に乗りました。
翌2005年に10時間46分37秒で初完走してからは、2回ほど抜けましたが基本毎年サロマ湖100キロに参加して、2016年にサロマンブルー(注:サロマ湖100キロを10回完走することを指す)を達成しました。その間、2007年には10時間00分37秒で、ほぼ10時間で走ったのですが、サブテン(100キロを10時間を切って完走すること)の公式記録も残しておきたいと思って、翌2008年は9時間50分51秒で走りました。
サロマンブルーを達成して、翌2017年は足形を取るのを兼ねて(注:サロマンブルーを達成すると記念の足形をゴール地点の常呂町スポーツセンターに飾ってもらえる)100キロも走りましたが、時間内にゴールできなかった。2018年も60キロの関門で制限時間を超えてしまって、2019年にギリギリの12時間58分54秒でゴールしたのが最後のサロマ湖100キロです。この時はみんなに応援してもらって、ゴールした時には涙を流して喜んでくれた人もいました。74歳の時です。
コロナ禍以降は大会にもあまり出ていない
─別大マラソンもサロマ湖100キロも、もうやりきったという感じだったのでしょうか?
それが、75歳になった2020年1月に、都内で開催された「ハイテクハーフマラソン」(現東京ニューイヤーハーフマラソン)に参加したらタイムは1時間43分だった。倍にしたら3時間半を切るわけです。だから練習していけばまだできるかもしれないと思っていたところに、新型コロナの大流行が起こった。
2020年の初めはまだ何とかなるかもしれないと思って、東京マラソンも、ボストンマラソンも走る予定でいたのだけれど、どちらも走れなくなった。練習すれば何とかなると思っていたけれど、コロナ禍で練習も満足にできなくなって、あれで完全に終わっちゃったね。それ以来、大会もほとんど出ていません。
─でも今も結構走られていますよね。
健康のためにね。毎朝2キロウォーキングして江戸川まで出て、スマートウォッチのGarminのメニューに従って1キロのインターバルを3本走ります。それからジョギングして家に帰ると、毎日8キロぐらい練習というか、体を動かしていることになります。
─マラソン大会に出なくなって、寂しいとか、喪失感のようなものはありませんか。
それは全くありません。80歳になって景色の見え方も違ってきた。以前はガンガン走っていたので景色なんてそれほど気にしていなかった。それが今は江戸川までウォーキングしていくと、きれいな景色が見えるわけよ。
夏なら朝4時半にはウォーキングを始めるのだけど、暗い中から徐々に明るくなってきて、朝日が昇るのが見えるわけです。ガンガン走っている時には見えなかった光景を目にすることができる。
冬場ならもっと遅くにウォーキングを始めるわけですが、雲の様相や野花の咲いているもようを見ることができる。スマホをかざして花の名前を調べてみたり、鳥が飛ぶ様子を観察してみたり。がむしゃらに走っていた時には見えていなかったものを目にして、自然の豊かさに心を打たれる楽しみができた。
昔ならランニング中に追い越されたら、「このやろう」なんて思ったりもしたけれど、今はそんなことも気にならなくなった。ゆっくり走っているランナーに追い越されていくことも、ごく当たり前に受け入れられます。今の方が体を動かすことを楽しめているように思います。
