思考を超えるには?
…僕は長年、身体感覚、エネルギー感覚、精神世界や霊性(スピリチュアル)の世界を探求しています。当然それは「思考」を超えた世界の領域であり、もちろん僕も立派な現代人であり、思考を介在させない世界というのは、常に未知の領域であり、暗闇で足場を探し、手を伸ばし続ける作業です。しかし、その中で朧げながらも手応えがあったり、確かな足場を感じることができてきました。その実践方法や知恵をシェアし、伝えることを、現在は生業にしています。「和の歩法」などで、身体操作を伝えながらも、結局は肉体の奥の神秘との出会いを、多くの人に知ってもらいたいと思っての活動です。別に「体の使い方のトレーナー」を目指しているわけではありません。しかし、長年やってく中で、色んな人たちに出会い、わかったことがあります。言語化能力が高く、思考力の高い人は、飲み込みが早く、成長も早い…、のは一面の事実です。集団やグループでのワークや学びにおいては、周りからも「あの人はすごい」みたいに、一目置かれます。でも、そういう人も途中で大きな壁に突き当たり、そこをブレイクスルーできない、ある段階から頭打ちの堂々巡り、みたいな状態をよく見聞きします。どうしてブレイクスルーできないかというと、思考です。そもそも思考とはなにか?我々が思考と呼ぶものは、記憶の集合体から放たれる「イメージ」なんです。そして知識とは「過去」なんです。頭の良い人、思考力の高い人ほど、その持ち前の思考力で作り上げた徹底されたイメージがあり、そこに概念、理論、理屈、自負、納得が含まれます。また、当然知識も多く、知識間の伝達も早く正確です。だから情報と情報を結びつけて考えることもできます。でも、それらはすべて「過去」です。知識に未来はありません。いくら組み合わせても過去の産物で、知識では「現在」にすら辿り着けません。永遠の過去です。過去+過去+過去+…、と、過去をいくら足し算しても、過去が増え続けるだけです。その先の「思考を超えたところ」へ行けないし、「過去と未来のない領域」「空間と時間のない場所」に触れられないのです。思考に重きを置いて生きていると、「社会」におけるスムーズさや、利便さ、快適さ、当然情報量の多さは得られれますが、『人生の本質』や『魂』とか『真理』、そして『神事』には辿り着きません。哲学的、思想的な「考察・説明」を思考は得意なので、あたかも人生の本質を知ってるような感覚になりますが、積み上げらた知識の足し算で得たものなので、それは人生の本質ではなく、過去の要約に過ぎません。精神的、感覚的な学びを実践していると、案外「わからない…」と言いながらも、それでも地道に続けている人の方が、ある時ふっと、その領域に触れていたりします。まあ、本人も気づいてない場合が多いんですけどね。でも、気づかなくていいんです。気づいて、納得して、知識=記憶にしない方がいいんです。記憶というのは「過去」であり「形式化」します。形式化したものは、すでに遺物です。今を生きてないのです。ということは、思考を越えるには、過去を超えるには、思考を使ってる限り無理なんです。このパラドックスを、これまた頭が良いと「頭で理解」したつもりになれる。この理解は思考ではないんです。そもそも「理解」という言葉の指し示すところが、思考の出来事ですよね?………あれ?今日の内容は、難しい? ___抜粋終わり___全文はnoteにて「思考を超えるには?」「思考を超える」ためには?|オオシマ ケンスケ今回は、この記事(「言語化力」よりも「非言語化力」についてと、AIとの会話)の続きみたいなものですが、 今回は「思考」というものについて考えてみたいともいます。 上記の記事の中で、 「思考は人間生活の中心に居座っています」 と書いた通り、我々は思考で考え、思考で判断し、優劣と損得を比較し、勝敗を予測し、思考を使って意思決定し、思考に統率で行動する。 …note.com