私はいわゆるアドヴァイタ系の書籍が好きで、中でも
OSHOの講話に少なからず共感を覚えてきましたが、
瞑想に関して寄せられる疑問や質問に対してそこには
いつも明確な回答があることに驚かされます。
瞑想に関する疑問の答えは瞑想を通して自分の中に見出すしかないものですが、見出しても言語化が難しく、どう表現したらいいのかというモヤモヤがあったりするのですが、OSHOはそれをきちんと言語化してくれているのです。
「そうそう、言いたかったのはコレだよ、コレ!」という感じですね。
古今東西、あらゆるマスターの言っていることは究極的には一つですが、
本来、言葉にはできないものを豊富なたとえや題材を用いて様々な角度から繰り返し説き、
瞑想初心者から上級者に至るまで、真理を探究するあらゆる階層の人々にヒントとなる言葉を残したという点でOSHOは本当に稀有な存在だったと思います。
今回ご紹介したい内容は「瞑想が私たちに何を与えてくれるか」についてです。
瞑想が与えてくれるのはあくまでも個人の内面的な豊かさであり、それは他者が外部からうかがい知ることができるものではありません。
物質的に豊かになれるわけでも、超能力が身についたりするわけでもなく、
それは本人にしかわからない極めて微妙な(しかし極めて大きな)変化です。
じじつ以前の私を知る人が久しぶりに私と出会うと、驚きます。
「以前の奥富さんはもっと明るく元気で、エネルギーに満ち溢れていたのに、どうしてこんなに元気がなくなっちゃったの?」と(苦笑)
失望させて申し訳ないな~とは思いますが(笑)
その答えは、今回引用する講話の中にあります。
※ちなみに以下の文章中の「私」を「瞑想」に置き換えて読んでもいいと思います。
私のもとに来るということは、あなたの人生全体の問題なのだ。根底から変わらなければならない。
私はあなたに根本的な変化を求める。
古い価値観、古い道徳観、古い概念、古い世界観を捨てなければならない。
過去とともに死ななければならない。そうして初めて、未来が芽吹き始める。
復活するために、私はあなたに十字架につくことを求める。
私は死のようなものであり、それこそがマスターに対する明け渡しの意味である。
私は、あなたの人生が楽になるとは言っていない。
いや、人生はもっと困難になるかもしれない。
私はあなたにバラの庭園を約束するわけでもない。
ただひとつだけ約束できることがある。
それは、もしあなたがリスクを負う覚悟があるのなら、もっと多くの困難があるかもしれないが、あなたは成長し始めるということだ。
私が約束できるのは成長だけだ。自分の中にある多くのものを破壊し、解体し、新しいあり方、新しい生き方を学ばなければならない。それは痛みをともなう。
マハリシ・マヘーシュ・ヨギが言うように、「瞑想すれば成功し、金持ちになれる」とは言わない。そんなことは言わない。
実際、私と一緒に行けば、あなたはもっと失敗するかもしれない。私と一緒に行っても、決して金持ちにはなれないかもしれない。
なぜなら、私と一緒に行けば、あなたはますます野心がなくなるからだ。私と一緒に行けば、あなたはますます攻撃的でなくなり、暴力的でなくなる。
野心とは暴力であり、世界で成功しようとする努力そのものが暴力なのだ。外の世界に関する限り、あなたは負け犬かもしれない。それについては何も言えない。
ただの乞食になるかもしれない。
しかし、ひとつだけ言えることは、あなたは成長し、内面が豊かになり、より至福に満たされるということだ。より成功するのではなく、より幸せで満たされるのだ。
より安らかになり、よりリラックスできるようになる。でも、お金や成功やそういうものが手に入るとは私は言わない。
私と一緒にいれば、あなたは多くのものを失わなければならないし、私と一緒にいれば、得るものはとても内面的なものになる。
だから、それは他人に指し示すことはできないし、誰かに見せたりすることもできない。得るものは非常に内面的で繊細なものであり、失うものは非常に全体的で外面的なものになる。あなたが損をしていることは誰にでもわかる。
つい先日の夜、あるインド人のサニヤシン(弟子)が来てこう言った。
「もうあらゆる野心が抜け落ちて、どんな成功にも関心が持てなくなっています。戦う気力もありません。もうすべてを手放したい」
私は言った。「そうあるべきだ』
彼はひとつ気になることがあった。
「私はもう瞑想にすら興味がありません。幸せで、静かで、でも瞑想にはもう興味がない」
私は言った。『それは最終的に期待すべきことだよ」
瞑想をやめるかどうか、彼は少し戸惑っていた。なぜなら、瞑想によってのみ、彼はくつろぎを感じられるようになったからだ。彼は瞑想にしがみつきたかった。私が「それも捨てなさい」と言うと、彼の最後の障壁は破られた。
今、この人を見ると、何が起こっているのかわかりにくいだろう。
実際、以前は今よりもっと輝いて見えたかもしれない。
でも今はせいぜい微笑むことができる程度で、それにも努力が必要だ。それは彼が不幸だからではなく、単に幸せだからだ。
(Osho The Discipline of Transcendence Volume 1/Sincerity in the searchより)
その人が本当の宝を手にしている人なのかどうか、外部から判断することはできません。
その人はごく普通の主婦かもしれません。
あるいは受験勉強にいそしむ学生かもしれない。
コンビニでレジを打っているアルバイトかもしれない。
はたまた住む家すらないホームレスかもしれません。
瞑想の効果は外見からは分かりづらいものです。
それは一個人の内面に関するものだからです。
その効果はその人だけにもたらされるものであって、世間一般でいう成功や幸福のイメージとは相いれない場合もあるのです。
「本当に価値あるものは、価値がありそうな姿をしていない」というのは何とも皮肉ですが、それもまた瞑想の素晴らしい奥深さだと思います。