私はいわゆるアドヴァイタ系の書籍が好きで、中でも

OSHOの講話に少なからず共感を覚えてきましたが、

 

瞑想に関して寄せられる疑問や質問に対してそこには

いつも明確な回答があることに驚かされます。

 

瞑想に関する疑問の答えは瞑想を通して自分の中に見出すしかないものですが、見出しても言語化が難しく、どう表現したらいいのかというモヤモヤがあったりするのですが、OSHOはそれをきちんと言語化してくれているのです。

 

「そうそう、言いたかったのはコレだよ、コレ!」という感じですね。

 

古今東西、あらゆるマスターの言っていることは究極的には一つですが、

 

本来、言葉にはできないものを豊富なたとえや題材を用いて様々な角度から繰り返し説き、

 

瞑想初心者から上級者に至るまで、真理を探究するあらゆる階層の人々にヒントとなる言葉を残したという点でOSHOは本当に稀有な存在だったと思います。

 

 

今回ご紹介したい内容は「瞑想が私たちに何を与えてくれるか」についてです。

 

瞑想が与えてくれるのはあくまでも個人の内面的な豊かさであり、それは他者が外部からうかがい知ることができるものではありません。

 

物質的に豊かになれるわけでも、超能力が身についたりするわけでもなく、

 

それは本人にしかわからない極めて微妙な(しかし極めて大きな)変化です。

 

じじつ以前の私を知る人が久しぶりに私と出会うと、驚きます。

 

「以前の奥富さんはもっと明るく元気で、エネルギーに満ち溢れていたのに、どうしてこんなに元気がなくなっちゃったの?」と(苦笑)

 

失望させて申し訳ないな~とは思いますが(笑)

その答えは、今回引用する講話の中にあります。

 

※ちなみに以下の文章中の「私」を「瞑想」に置き換えて読んでもいいと思います。


私のもとに来るということは、あなたの人生全体の問題なのだ。根底から変わらなければならない。

 

私はあなたに根本的な変化を求める。

 

古い価値観、古い道徳観、古い概念、古い世界観を捨てなければならない。

過去とともに死ななければならない。そうして初めて、未来が芽吹き始める。

 

復活するために、私はあなたに十字架につくことを求める。

 

私は死のようなものであり、それこそがマスターに対する明け渡しの意味である。

私は、あなたの人生が楽になるとは言っていない。

 

いや、人生はもっと困難になるかもしれない。

私はあなたにバラの庭園を約束するわけでもない。

 

ただひとつだけ約束できることがある。

 

それは、もしあなたがリスクを負う覚悟があるのなら、もっと多くの困難があるかもしれないが、あなたは成長し始めるということだ。

 

私が約束できるのは成長だけだ。自分の中にある多くのものを破壊し、解体し、新しいあり方、新しい生き方を学ばなければならない。それは痛みをともなう。

マハリシ・マヘーシュ・ヨギが言うように、「瞑想すれば成功し、金持ちになれる」とは言わない。そんなことは言わない。

 

実際、私と一緒に行けば、あなたはもっと失敗するかもしれない。私と一緒に行っても、決して金持ちにはなれないかもしれない。

 

なぜなら、私と一緒に行けば、あなたはますます野心がなくなるからだ。私と一緒に行けば、あなたはますます攻撃的でなくなり、暴力的でなくなる。

野心とは暴力であり、世界で成功しようとする努力そのものが暴力なのだ。外の世界に関する限り、あなたは負け犬かもしれない。それについては何も言えない。

ただの乞食になるかもしれない。

 

しかし、ひとつだけ言えることは、あなたは成長し、内面が豊かになり、より至福に満たされるということだ。より成功するのではなく、より幸せで満たされるのだ。

 

より安らかになり、よりリラックスできるようになる。でも、お金や成功やそういうものが手に入るとは私は言わない。

私と一緒にいれば、あなたは多くのものを失わなければならないし、私と一緒にいれば、得るものはとても内面的なものになる。

 

だから、それは他人に指し示すことはできないし、誰かに見せたりすることもできない。得るものは非常に内面的で繊細なものであり、失うものは非常に全体的で外面的なものになる。あなたが損をしていることは誰にでもわかる。

つい先日の夜、あるインド人のサニヤシン(弟子)が来てこう言った。

 

「もうあらゆる野心が抜け落ちて、どんな成功にも関心が持てなくなっています。戦う気力もありません。もうすべてを手放したい」

 

私は言った。「そうあるべきだ』

彼はひとつ気になることがあった。

「私はもう瞑想にすら興味がありません。幸せで、静かで、でも瞑想にはもう興味がない」

 

私は言った。『それは最終的に期待すべきことだよ」

瞑想をやめるかどうか、彼は少し戸惑っていた。なぜなら、瞑想によってのみ、彼はくつろぎを感じられるようになったからだ。彼は瞑想にしがみつきたかった。私が「それも捨てなさい」と言うと、彼の最後の障壁は破られた。

今、この人を見ると、何が起こっているのかわかりにくいだろう。

 

実際、以前は今よりもっと輝いて見えたかもしれない。

 

でも今はせいぜい微笑むことができる程度で、それにも努力が必要だ。それは彼が不幸だからではなく、単に幸せだからだ。

(Osho The Discipline of Transcendence Volume 1/Sincerity in the searchより)

 

 

その人が本当の宝を手にしている人なのかどうか、外部から判断することはできません。

 

その人はごく普通の主婦かもしれません。

あるいは受験勉強にいそしむ学生かもしれない。

コンビニでレジを打っているアルバイトかもしれない。

はたまた住む家すらないホームレスかもしれません。

 

瞑想の効果は外見からは分かりづらいものです。

それは一個人の内面に関するものだからです。

 

その効果はその人だけにもたらされるものであって、世間一般でいう成功や幸福のイメージとは相いれない場合もあるのです。

 

「本当に価値あるものは、価値がありそうな姿をしていない」というのは何とも皮肉ですが、それもまた瞑想の素晴らしい奥深さだと思います。

瞑想は、とてもしんどいものです。

 

それは、真剣に向き合えば向き合うほど、自分の責任を他の誰かに押し付けることができないポイントまで否応なく自分を追い詰めるものだからです。

 

でもそうしてこそ、真の変容が起こります。

 

自分を縛り付けていた思考からの解放が実現します。

 

誰かに依存したり支配されたりすることがなくなり、自分自身を取り戻すことが可能になります。

 

瞑想はしんどいものです。でも、そのしんどさはとても有難いものだと思います。

 

 

「(ブッダは)不幸の原因はあなた自身にあることを理解させるために、あらゆる方法で手助けしてくれることだろう。

 

これはとても難しいことだ。『不幸の原因は自分にある』ということを理解するのは最も難しいことだ。

 

これはとてもつらいことであり、人は傷つく。誰かから『それは他の人のせいだ』と言ってもらえたら、あなたは安心感を覚える。そしてそう言ってくれる人は同情的に見える。

 

もしその人が『あなたは苦しんでいる人であり、被害者であり、他人があなたを搾取している、他人があなたに損害を与えている、他人があなたに暴力を振るっている』と言えば、あなたは良い気分になる。

 

しかし、この良さは長続きしない。それは一瞬のなぐさめであり、非常に大きな代償をともなう危険なものだ。

つまり、あなたに同情的に見える人たちは、本当はあなたの敵なのだ。彼らの同情は、あなたの不幸の原因そのものを強化してしまうのだから。

『自分には問題がなく世界が間違っている。不幸は自分とは別のところからやってくるのだ』と。


ブッダや悟りを開いた人のところへ行けば、その人はあなたに対して厳しい態度をとるに違いない。

 

彼はあなた自身に原因があるという事実を突きつけるからだ。

 

しかし地獄の原因は自分にあると感じ始めたら、変容はすでに始まっている。そう感じた瞬間に仕事の半分は終わっている。あなたはすでに道を歩んでいる。大きな変化があなたに訪れたのだ。

自分が原因であることを理解すれば、不幸の半分は突然消えるだろう。そうなれば、不幸を生み出す原因を強化する手助けをするほど無知ではいられなくなる。

 

あなたの協力は断ち切られる。古い習慣のせいで不幸はまだしばらくは続くだろうが。

たとえ注意深くなったとしても、習慣的なパターンはしばらくの間、あなたを同じ方向に向かわせるだろう。

 

しかしそれは長くは続かない。エネルギーはもう存在しない。枯れたパターンとして続くことはあっても、やがてそれは朽ち果てる。

 

エネルギーは毎日養われる必要があり、毎日強化される必要がある。あなたの協力が絶えず必要なのだ。

自分が不幸の原因だと気づけば、協力は抜け落ちる。

 

だから、私があなたに言うことは、ただ一つの事実だけだ。

 

それは、あなたがどこにいようとも、あなたがどのような状態であろうとも、その原因はあなた自身にあるという、たった一つの事実だ。

 

どうか悲観的にならないでほしい。他の誰かが原因だとしたら、何もできない。

そのため、マハーヴィーラは神を否定した。

マハーヴィーラは『神は存在しない』と説いた。

 

もし神が存在するのなら、私たちには何もできないからだ。

 

神がすべての原因だとしたら、自分に何ができるというのだろう?

 

神は世界を創造し、私を創造した。もし彼が創造主なら、破壊できるのは彼だけだ。そして、もし私が惨めであるなら、責任は彼にあり、私にできることは何もない。

だからマハーヴィーラは

『もし神がいるなら、人間は無力だ』と説いた。

 

だから彼は『私は神を信じない』と言った。

 

その理由は哲学的なものではなく、非常に心理学的なものだ。

そうしてこそ私たちは誰かに責任を押し付けることをやめる。

神が存在するかどうかは問題ではない。

マハーヴィーラは言った。『自分がどのような状態であっても、その原因は自分にあることを理解してほしい』と。

 

これはとても希望に満ちたことだ。あなたが原因であるならば、あなたはそれを変えることができる。地獄を創ることができるなら、天国を創ることもできる。あなたがマスターなのだ。」
(Osho 「Yoga The Alpha and the Omega Volume 1」/The cause of your miseryより)

さいきん何かと話題のChatGPTですが、

説明を聞くと物凄い内容ですね…

 

こうした高性能AIの登場はまだまだ先の話だと思っていましたが

 

ドラえもんの四次元ポケットから出てくる未来の道具のような存在が私たちの社会をあらゆる側面から一変させてしまうのはすぐ目の前だと感じます

 

AIに仕事を奪われる等の不安な声も聞きますが、

 

少なくとも瞑想ガイドという立場から見た場合、

 

むしろAIの登場によって私たちの生活の利便性や快適さがこれまで以上に増すことで、人の意識が外面よりも内面に向きやすくなるのは必定で、

 

より人が瞑想に向かいやすくなる環境はさらに加速するでしょうし

 

そうしてより多くの人々が本質的な幸福とつながる確率が高まるという意味で

 

こうしたAIの登場はむしろ喜ばしいことだと私は思っています

 

AIは古今東西のあらゆる知識・知見を私たちに提供してくれることと思いますが

 

本来の自己、本質的な幸福や満足というものは

 

知識として伝達・共有できるものではなく

 

個人の内面にしか発見できない

 

究極的な属人性を持つものなので

 

それらは私たち一人ひとりの人間が追い求める最後の聖域となるでしょう

 

AIやテクノロジーの進歩によって私たちの生活の快適さ、便利さが進めば進むほど、

 

それらは本来の幸福とは何の関係もないということを私たちは知ることになります

 

そうした分だけ、私たちは自分の外側ではなく、内側に真実の満足を見出そうとするようになるのです

 

その最後の聖域に注力するチャンスがAIや最新のテクノロジーの進展によってより大きくなると思います

 

AI時代の到来は、瞑想の時代の到来でもあるのです

瞑想で性格は良くなりませんね(苦笑)

 

キツイ性格の人が瞑想をしても、キツイままです(笑)

 

弱気の人が瞑想をして、急に勝気な性格になるわけでもありません。

 

でも、それでいいのです。

 

なぜか?

 

そもそも良い性格とは、誰にとっての良い性格なのでしょう?

 

他人から見ていくら素晴らしい人格の持ち主でも、

その人格が自分の本心に反するものであったとしたら、その負担やダメージは必ず自分自身に返ってきます。

 

 

瞑想が私たちに教えてくれるのは

 

他人に対して良い人になること

 

ではなく

 

自分に対して良い人になることの大切さです。

 

人生で自分といちばん長い付き合いをするのは他でもない自分自身です。

 

だから自分自身との関係が良くなれば、それ以上、重要なことはないのです。

 

 

他人の意を汲んだり他人の意向を尊重したりすることはもちろん悪いことではありませんし、社会を生きていくうえで大切なことでもありますが、

 

何よりも自分の意向を尊重することが人生を心地よくする秘訣です

 

でも、難しいですよね。自分に正直に生きるということは…。

 

私たちは人生を通して、他人に喜ばれるように、他人に評価されるように、他人に奉仕するように教えられてきましたし、

 

反対に、自分自身に奉仕することの大切さはほとんど教わっておらず、むしろそうした生き方は自分勝手、わがままだとされがちだからです。

 

だから「嫌われる勇気」というようなタイトルの本がベストセラーになったりするのでしょう。

 

嫌われることに勇気が要るということはその分、自分に正直に生きづらいということの裏返しですよね。

 

 

要するに私たちは「他人に嫌われると損をする」という洗脳が強固なので、そうした洗脳を解くのがポイントです。

 

瞑想は、そうした洗脳を解くためにあるとも言えますね。

 

具体的には、「嫌われると損をする」のではなく、「嫌われるとどんな利得が自分にあるか」を考えてみると面白いと思います。

 

 

私の好きな言葉に

「他人に対する正直なNOは自分に対する誠実なYES」(バイロン・ケイティ)という言葉があります。

 

他人に対して正直でいられない心とは結局、自分に対して不誠実な心です。

 

そうした心の数々を手放し生きることができた時、

結果的に私たちは他人にも自分にも誠実に生きられます。

 

もし100%自分に誠実に生きられたら、その人は間違いなくイエス・キリストであり、ブッダそのものと言えるでしょう。

 

100%自分に誠実であるということは、100%他人に誠実であるということだからです。

 

自分に誠実に生きられるようになることは、どんな偉業を成し遂げることよりも偉大なことに違いありません。

 

そうした意味で瞑想は

人生の一大プロジェクトに役立つ大変な方法だと言えますね。

「ワイルド・ワイルド・カントリー」は

 

1970年代から80年代にかけて

欧米はもとより日本の精神世界にもブームを巻き起こした

バグワン・ラジニーシとその集団を扱ったドキュメンタリー。


数年前Netflixで見て、いつか感想をまとめてみたいなと思いつつどう表現するかが難しく放置していましたが、


先日ネットで番組の紹介記事を目にしたことから思い出し

改めて書いてみようと思った次第です。


ちなみに細かい話ですが、配信元のNetflixにある

出演:バグワン・シュリ・ラジニーシという表記は

本来ならバグワン・ラジニーシが適切なはず。

シュリ(Sri/Shri/Shree)とは

インドで神や聖人、尊敬する対象に付ける敬称で

〇〇様とか〇〇師匠、聖○○というニュアンスを持つ言葉なので

こういった客観性をうたうドキュメンタリーの場合、敬称を略すのが普通でしょう

ラジニーシの弟子やフォロワーが作った作品ならともかく、

なにせ内容的に狂信的なカルト教団の教祖としてラジニーシを描いている以上、そういった面からも敬称をつけるのはアンバランスな感じがします。

まあ実際は、バグワン・シュリ・ラジニーシで一つの名前なんだと誤解して表記しているだけなのでしょうが…。
 

 

ともあれ、作品はアメリカTV界で最高の栄誉とされるエミー賞を受賞しています(2018年ドキュメンタリー/ノンフィクション部門)。
 

 

1980年代初頭、アメリカ・オレゴンの砂漠地帯に突如として現れたラジニーシの巨大コミューン(ラジニーシ・プーラム)が

 

地域社会とのトラブルを繰り返して崩壊に至るまでのてん末を

 

当時の映像資料をふんだんに使い、関係者のインタビューを交えながら描いた6時間もの大作です。


何の予備知識もなく見た人ならば

「こんな異様な集団が存在したのか。これだからカルトは…」

となるのは不可避の内容で

 

反対にラジニーシやその講話が好きな人ならば

複雑な心境になること必至の内容です。


私も複雑な心境になった一人ですが、ただ、

 

製作者側の視点に立つと

テレビ番組という性質上、仕方がなかったのだろうなとは思います。


内容を見ればわかりますが、番組はラジニーシ個人の主張や思想といったものには踏み込んでいません。


挑発的な言葉は確かに少なくないので、物静かで優しく、穏やかな人物とは決してみなされないでしょうが、


ラジニーシの考えや話の内容自体は極めて明瞭でユーモアにあふれ、人間の心に対する深く鋭い洞察に満ちています。(You Tubeに多くの動画がアップされていますし日本でもじつに90冊もの翻訳書が出版されています)

また、一大キリスト教国であるアメリカのマスコミを相手にラジニーシはさんざんキリスト教の批判をしてはいますが、講話ではイエス・キリストの愛や聖書の内容の真実性について数多く語っています。


でもそうしたものを取り込むと番組としては軸がブレてしまう。


内容上はあくまでも怪しげなグル(霊的指導者)と狂信的な信者集団がオレゴンの片田舎を舞台に全米を震撼させた、というような形にしたほうがわかりやすいし、面白い。

秘書であるシーラという女性が集団内で女帝化し

虎の威を借る狐のように権力を振るう中で数々の事件を起こしたことは事実ですし、オレゴンのコミューン崩壊までのプロセスも実に劇的です。

ドキュメンタリーとはいえ、歴史的な検証をしたり当事者の証言を多角的に収集したりするのが目的の学術的な記録映像ではなく、あくまでも一般視聴者に向けたTV番組なのですから、

 

やはりエンターテインメント要素を全面に押し出す必要があったのでしょう。


製作者は
神秘家としてのラジニーシ個人に焦点を当てることは避け、

得体の知れない新興宗教団体の隆盛と没落という側面から

番組を作ることにしたのだと思います。

また、製作者を含め当時、

この騒動をリアルタイムで見聞きした人も多かったであろう全米の人々の関心もまた、そうした側面にこそあったのでしょう。

 


ともあれ、
ラジニーシ自身は、多くの人を集め、

たくさんのブッダ(覚醒した人)を生み出し、

覚醒した人の集団・ブッダクラブを作ろうとしたのでしょうが、

 

実際、彼のそばにいた弟子の回想録や出版物を読んでも

ラジニーシと弟子たちの当時の面会記録を見ても

弟子側の意識には「悟り」の「さ」の字もなかったりするので、

 

実際にはラジニーシの集団はブッダ・クラブなどではなく、

ブッダ・ファンクラブに過ぎなかったんだな〜というのが私の実感です。

(もっともラジニーシ以上に長い期間、じつに半世紀以上にもわたって真の自由や幸福、人生の真理について語り続けたクリシュナムルティですら死の直前、「私の言葉を理解した人は誰もいなかった」旨の発言をしていたそうですから、覚醒した人の言葉を我々一般人が正確に理解することなど土台無理な話なのかもしれません)

 

ちなみに

1970年代〜80年代にかけ日本でも

ラジニーシの講話に感激してサニヤシン(弟子)となり

インドやアメリカまで行ったものの、グループ内の人間関係に失望して団体から離れたり弟子をやめたりした人は少なくなかったようですね。

 

 

なので、

今回のドキュメンタリーも何となく想像していた通りの内容で「やっぱりな~」という感じでした。

 

それでも6時間もかけた番組でラジニーシの個人的な思想にはノータッチというのにはやはり残念&モヤモヤ感がありましたが…。

 


ところで

ラジニーシと同時代のインドに生きた有名な覚者であるニサルガダッタ・マハラジはラジニーシの教え自体には共感を示していたそうですが

 

ラジニーシが多くの弟子たちを集めてやっていることには全然関心を示さなかったようですね。

 

「なんであんなことをするのかわからない」というスタンスだったみたいです。


ともあれしかし、ラジニーシ(晩年はOshoと改称)のメッセージ自体は今もみずみずしい輝きを放つ素晴らしいものです。

とくに瞑想や座禅に取り組んでいる人にとっては参考になるでしょう。

実際に日本のお寺の中には、禅に関する彼の講話録を教材にしていた所もあったそうですし、

 

公益法人である禅文化研究所は講話録の日本語訳を出版しています(「信心銘」)

今も個人的に参考にしているお坊さんはいるでしょうね。

今年8月に亡くなられた稲盛和夫さんは65歳の時に在家得度され厳しい修行にも取り組まれたそうですが

 

年を重ねてから仏教の教えに惹かれる人は多いようです。

 

そうした人にもラジニーシの講話録はうってつけだと思います。

先入観にとらわれずに一度読んでもらいたいですね。

初期仏教の経典であるダンマパダ、

大乗仏教の経典である金剛般若経、

中国禅宗の開祖である達磨、

そして一休や白隠、臨済、道元といった日本の禅に至るまで自由自在に語っています。

もちろんラジニーシ独自の解説なので

学術的な見解や仏教の伝統的な解釈とは異なる点もあると思いますが、そこには堅苦しい考え方や無味乾燥な解説ではない、現代の私たちの心につき刺さる生きた言葉があります。

なお、ラジニーシに関する見方の一つに

人々にフリーセックスを説いたセックス・グルというものがありますが、

そうした見方が気になる人は

彼が講話の中でセックスについてどのような言葉を残しているのかを調べてみるのも興味深いと思います。
(たとえば講話録「From Sex to Superconsciousness」(日本語訳「セックスから超意識へ」など)

ただ、そうはいっても

ラジニーシが今後、

その教団(というかグループ)と共に

「ワイルド・ワイルド・カントリー」のようにセンセーショナルに取り上げられることはあっても

 

その本質が多くの人にきちんと伝えられることは恐らくないだろうなと思います。

ラジニーシの言葉は

人に表面的な慰めや希望を与えるものではなく

生活に役立つ知識を授けるものでもなく、

自己の本質に関心を持つ者だけに向けられたものだからです。


決して一般受けするようなものではないんですね。


その言葉は時代と共に色あせるようなものではありませんが、

それはごく少数の探究者や愛好家たちによって細々と受け継がれていくだけでしょう。
 

そしてそれでいいのだと思います。自己の本質を見極めようとする人はいつの時代もごく少数でしょうから。

 

そうした意味でも「ワイルド・ワイルド・カントリー」は考えさせられる作品でした。

食事をする時にするべきことは、食事をすることです。

 

仕事をする時にするべきことは、仕事をすることです。

 

遊ぶ時にするべきことは、遊ぶことです。

 

寝る時にするべきことは、寝ることです。

 

何であれ自分の目の前にあることが取り組むべきことですね。

 

でも、心の中に「するべきこと」があると、

 

目の前のやるべきことに集中できなくなってしまいます。

 

食事をするべき時に仕事のことを考えたり

 

仕事をするべき時に遊びのことを考えたり

 

遊ぶべき時に寝る時のことを考えたり…。

 

また、心の中に「するべきこと」があると、目の前のことに対して

「これは私のするべきことか、するべきことではないか」という考えが生まれ、それがエネルギーを無駄に消耗させます。

 

反対に、心の中の「するべきこと」が減れば減るほど、目の前のするべきことが自然になされていくことに気が付きます。

 

そしてそうなればなるほど、「あの時ああすべきだった」「こうすべきだった」という後悔も不思議と減っていきます。

 

瞑想を通じて、心の中にある「するべきこと」を手放せば、

人生がとてもシンプルになります。

瞑想をご案内していると、会員のかたから

 

「瞑想にはやはり禁欲が必要なのでしょうか?」

 

という質問をたまに受けたりします。

 

他の宗教で実践されている瞑想では戒律があったりするため

 

それに従うべきなのでしょうが、

 

うちは宗教ではないので、特にルールはありません。

 

なので、私は

 

「好きなことを楽しんでください」

 

と答えるようにしています。

 

もし恋愛をしたいのであれば

 

思い切り恋愛を楽しむべきですし、

 

ビジネスで成功したいのであれば

 

全身全霊でそれに取り組むべきだと思います。

 

本当にしたいことができた時

 

人の心は満たされます。

 

でも、

下手に抑圧すると、いつまでも未練が残ってしまいます。

そして未練は瞑想の障害になるのです。

 

私は2500年前に悟りを開いたお釈迦様(ゴータマ・ブッダ)の逸話が大好きです。

 

ブッダはもともとインドの王国の王子として生を受け、何不自由のない生活を送っていました。

 

幼少の頃から専用の宮殿で育てられ、この上なく安全で快適な環境のもとで最高の教育を受け、

 

美味しい料理と選りすぐりの美女たちに囲まれ、次期国王という最高のステータスを持ち、結婚もし、子宝にも恵まれました。

 

そんなブッダが29歳の時、すべてを捨てて修行の道を選び、瞑想を通して究極の自由を得たという話はよく知られているところです。

 

つまりブッダは

当時考えられる最高レベルの喜びと快楽を享受することができた人間だったわけです。

 

そして物質的な欲望を満たすことができたからこそ、悟りという最後の欲望へと向かうことができたのです。

 

マズローの欲求5段階説がどこまで正しいものなのか私は知りませんが、欲求を抑圧することなく健全に満たすことは幸せな人生に不可欠であると思います。

 

やりたいことがあったら、それに取り組みましょう。その行動がその時の自分にとって最高の瞑想になるはずです。

 

そしてそうして自分の欲求をきちんと満たして取り組む瞑想は、どのような行動でも満たせなかった欲望を最後に満たす究極の光になることでしょう。

私たちは生まれてから現在まで

家庭や学校、友人関係、趣味、恋愛、職場などを通して様々なことを経験し、数えきれないほどの考えや観念を詰め込みながら生きてきました。

 

それらはその時の人生で必要なものであり、その時の自分を助けてくれるものでもありました。

 

しかし、気が付くと、それらが大きな荷物になり、知らず知らずのうちに自分を縛り、自由を奪う手かせ足かせになってしまっています。

 

私たちはこれまで大切なものは自分の外側にあり、

それを獲得すべく奮闘・努力するよう教えられ、

その考えを信じてきたため、

 

自分がこれまでため込んできた荷物のせいで苦しくなっていても

自分を自由にしてくれるものもまた外側にあるのだと思い、

様々なものを外に探し求めてかえって荷物を増やしています。

 

でも、

 

どれほど偉大な人の言葉や教えであったとしても

それはその人の真実であって

自分の真実ではありません。

 

自分を解放してくれるのは

自分の中に見つけた真実だけです。

 

スピリチュアルな知識や教えも含めて

自分の外で得たものをすべて

一度降ろしてみませんか?

 

引き算の瞑想はそれを実際に実現できる方法です。

 

荷物の一切を手放した時、

決して失われることのない真実の自由が見つかります。

私はコーヒーが好きなのですが、

 

きっかけはベトナム・コーヒーとの出会いでした。

 

何も知らずに注文したそのコーヒーが超濃厚で(お店の人の手違いかと思ったくらい)、そのあまりの濃さにハマり、以来、濃いブラックコーヒーが大好きになりました。

 

さらにYouTubeチャンネルでおいしいコーヒーの淹れ方を知ってからは、自宅で淹れるコーヒーにハマっています。

 

それまで自宅ではネスプレッソのカプセルを使用したコーヒーを飲んでいたのですが、その味を上回る美味しさ。

 

お店で飲むコーヒーより美味しいので、出不精な私にはさらにピッタリ。自宅が最高のカフェになりましたニコニコ

 

ポイントは

①良質のコーヒー粉を選ぶこと(私は有機無農薬のを使っています)

②時間をかけて抽出すること

これだけです。

 

一杯のコーヒーの抽出に10分くらいかけます。

淹れる時はただコーヒーにだけ意識を向けます。

 

まあ、本格的なコーヒー好きの方から見たら、私の淹れ方なんぞまだまだぬるい、ツッコミどころ満載のドリップ方法なのでしょうが、ズボラな私でもこんなに美味しいコーヒーが作れるんだと驚いています。

 

ちなみに参考にしたのは岩崎泰三さんのYouTubeチャンネル

 

プロのこだわりテクニックを教えてもらえます。

ほんのちょっとのポイントを意識するだけで結果が大きく変わる…というのは万事において共通なのだとしみじみ感じる次第です。

企業研修の一環として100名を超す方々を対象に瞑想を案内したことがありますが、これがなかなか大変で、

 

参加者の画面オフ・音声オフという状態で実施したところ、まるでダンサーが目隠し&耳栓をして舞台で踊るような感覚になりました...(苦笑)。

 

瞑想案内は相手の反応を見ながら相手の状態に合わせて行なうものなので、相手の反応がわからない状態というのはきつかったですね〜(;^ω^)

 

ともすれば壁に向かって話しているような感覚になり、緊張感と集中を保つのが難しく、これは参加者の人々にも当てはまるのではと思いました。

 

 

幸い参加者の方々の感想は良かったのですが、

今後オンラインの研修は相手の状態を把握できる少人数制にするか、大人数の場合はあとで個別にフォローするセッションを設けるかしないと、繊細な部分までの案内は難しいなと感じました。

 

 

瞑想案内は、例えて言うのなら野球のコーチのようなものです。

 

コーチは

選手とピッチングやバッティングの理論を共有し、選手と共にフォームを作り上げていくわけですが、

 

理論は一つでも、選手によって体格や筋力、性格などすべてが異なるため、フォーム実現までの道のりは様々で、ケースに応じて柔軟な対応が必要になるものだと思いますが、そんな感覚ですね。

 

野球ではフォームは外から見えますが、瞑想の場合、その人の内面は見えないため、また別の難しさがあります。

 

いつの間にか我流におちいっていったり、途中下車の駅を終着駅だと思ってしまったり…。

 

特に瞑想にともなう内的な体験は座禅の世界でいうところの“魔境”につながりやすく危険でもあるため、案内者は注意して見守る必要があります。

 

ともあれ経験は最高の先生なので、今後もオンラインでの瞑想案内は増えると思いますが、様々な角度から実践・研究を続けていきたいと思っています。