モダンデザイン・デザイナーズ家具・名作家具を考える。 -3ページ目

モダンデザイン・デザイナーズ家具・名作家具を考える。

世の中のすべての製品には歴史があり、現在に至ります。
製品の歴史、変遷、デザインを辿りたいと思います。

イギリスの 『アーツ&クラフツ運動(1850-1914 Arts and Crafts Movement)』 は、海を渡りヨーロッパ各国に影響を与えました。
『アーツ&クラフツ運動』 について



オルタ邸ヨーロッパ各国のうちベルギーは、最も早くその影響を受けた国のひとつで、早い段階で 『アール・ヌーヴォー(1880-1910 Art Nouveau 新しい芸術)』 が花開き流行したと言ってもよいかと思います。
『アール・ヌーヴォー』 について

アール・ヌーヴォーの造形的特長は、植物のつるのように有機的で滑らかな細長い曲線を組み合わせて表現されます。

曲線は一定の方向ではなく多方向で、複雑にからみ合い、その様子は、女性の髪の毛をイメージしているようにも見えます。

曲線の表現は扉、欄干、手すり等に施されることが多いのですが、近代に入り積極的に用いられた建築材料の一つである鉄が、そのような優美な曲線の表現に一役を担ったと言えます。


オルタ邸ドアノブ曲線を表現する部材、末端には、動物あるいは動物の一部分、昆虫、骨格等、自然界に存在するものをモチーフにデザインされる事が少なくありません。
と言うより、むしろ建築金物、家具金物、ステンドグラスなどの各種部材にそのようなモチーフを多用する事が、ベルギーのアール・ヌーヴォーの特徴と言っても良いかもしれません。

そして、そのような金物の多くはそれぞれ職人の手により、加工された一品生産品です。
機械生産を否定し、手作業による生産が賞賛されたアール・ヌーヴォーだからこそ可能となった生産品と言えます。

ベルギーのアール・ヌーヴォーは、見た目の装飾性に関して他のヨーロッパ各国と比べると華やかで、ディディールは細部に渡って追求されたと言ってもよいかと思います。

産業革命後、19世紀初頭に至る間、ヨーロッパでは、古代のモチーフを使う『リバイバル様式』、あるいはそれらを組み合わせる『折衷様式』により各地に建物が建てられましたが、社会は、大衆が平等を求め、個人の生活の質の向上が追及され始めました。
『リバイバル様式』、『折衷様式』 について

運動の先駆けとし、イギリスで『アーツ&クラフツ運動(1850-1914 Arts and Crafts Movement)』が始まり、運動は海を越え、ヨーロッパ大陸に影響を与えました。
『アーツ&クラフツ運動』 について

そして、大陸の各地では、“新しい時代に合った新しいスタイルの創造”をモットーとする『アール・ヌーヴォー(1880-1910 Art Nouveau 新しい芸術)』が誕生しました。



チューリップ アール・ヌーヴォー『アーツ&クラフツ運動』が、機械生産を否定し、中世ゴシック時代の手工芸を理想としたのに対し、『アール・ヌーヴォー』は、機械を否定せず、機械生産に適合した上で新しい美の創造を目指した事、そして過去の歴史的様式から脱却し、時代にあった新しい造形、新しい様式の創造を目指しました。

運動は、建築、室内装飾、家具、絵画、版画、広告、ポスター、雑誌、日用品など広範囲に渡って行われ、芸術家はそれぞれ自身の専門は元より、専門外の分野においても幅広く活動をしました。

そして、そのように各人が広範囲に活動を行う事が出来た事自体が、当時の社会において大衆の自由、平等が尊重し始められていた実証にもなります。


エミール・ガレ アール・ヌーヴォー『アール・ヌーヴォー』は、まずベルギーで始まり、フランスに影響を与えます。

その後、ヨーロッパの各国が互いに影響を与え合い、その風土や風習に応じた各国独自のスタイルを確立していきます。


しかし、、『アール・ヌーヴォー』にはそもそも装飾性が多分に備わっている事、そして、とりわけ、『後期アール・ヌーヴォー』では構造を無視し個人の趣向で限りなく自由にデザインされた事などが原因で、機械による大量生産には向かなくなりました。

しかも、その結果、低価格で製造できず、最終的には富裕層が手にする高価な製品を作る事にもなり、1900年を頂点に、急激に衰退していきました。


まさにそれは世紀末、ヨーロッパ各地でほんの一瞬開花した可憐な花のように感じます。

製品は、ある人物が図(アート)を描いた後、本人自身の手で製作(クラフト)までするのが理想だと考えられる事があります。


図(アート)が完璧である事は極めてまれで、あくまで製品を作るための情報と考えます。
図(アート)を描いた時点では、その製品の製作(クラフト)に最も適する架構、製造方法の判断が必ずしも容易ではありません。

そう考えますと、図(アート)に基づき実際に製作(クラフト)し始める事で、はじめて図(アート)の問題点が認識でき、仮に製作(クラフト)が困難になるならば、元図(アート)を製作(クラフト)しやすいように変更、改良等をすればよいのです。

もし、図(アート)の作成者と製作(クラフト)者が同一人物であれば、製品に対する理念は踏襲され、結果、製品の品質は維持されるだろうと考えられます。
一方、図(アート)の作成者と製作(クラフト)者が違えば、出来上がった製品は、図(アート)の作成者の理念と食い違う可能性が少なくありません。


一方、イギリスの建築史家で建築家でもあるニコラス・ペブスナーは、
『工業は、大量に同一の製品を生産することであり、デザイナーは実用品の考案や作図をする人だと考える。自分で考案、作図したものを自分で製作までしてしまう場合には、デザイナーとは呼ばない。が、ある人がたったひとつだけ作られるものを考案、作図する場合でも、その人はデザイナーであると言える。』と語っています。

つまり、アートとクラフトの分離が理想だとする考え方を持っていました。
又、ニコラス・ペブスナーは、機械生産を肯定するモダニズムの賛成者でもありました。


さて、現代の世の中は、建築、工芸品や美術品などの製品につき、同一人物がアートからクラフトまで一貫して携われる環境であるとは必ずしも言えないと思います。
むしろ、プロジェクトがより巨大化、細分化し、又、生産される製品の品質が各段に向上してきた事、そして、同一人物がアートからクラフトまで一貫して作業をする場合のコスト上昇などの要因により、分業体制が主流であると言えなくもないと思います。


一貫しての作業、あるいは分業のどちらが正だとかを断定するのが骨子ではなく、工業製品に関わる人たちそれぞれがそのような課題を常に認識する事で、今日、そして今後、より良い工業製品の製造が可能になるのではないかと思います。

古代エジプト、ギリシャ、ローマ時代には、“クラフトマン”、つまり、手工芸技術を持ち、手作業で製品を製作する人たちが存在しました。

一方、“アーティスト”、つまり自身の手を動かして製作行為はせず、デザインや意匠に特化する立場の人たちは明確には存在しませんでした。

クラフトマンが何らかの物を製作するには、その為の下絵や構想図が必要になりますが、今日で言うところの設計図や意匠図のような明確なものではなかったと考えられています。


中世になると宗教色が強まりました。
ゴシックの大聖堂のように大規模な建築物が各地に次々に建てられた事から分かるように、クラフトマンが活発に活躍していた時代といえます。

そして、クラフトマンは、親方、職人、従弟という形でチームワークが育成され、そして、親方が、自身の頭の中で製作物を計画し、同時に下位の者を監督し、製作にあたっていました。

さらには、“ギルド”と呼ばれる職人組合の設立で、組織立った製作活動がされていました。

このように、中世ヨーロッパ時代もアーティストの存在は明確ではありません。


近世はルネッサンスにより、ブルジョアの大頭、人文科学、思想、哲学の発達と共に、知識人が出てきます。
その結果、クラフトマンは、それまでの単なる製作、つまり肉体労働に携わるのではなく、自身で綿密な立案や計画を始めます。


つまり“アーティスト”が誕生しました。


しかし、“アーティスト”“クラフトマン”の明確な分離ではなく、クラフトマンの延長で、知的なアート作業をしている状況でした。


近代になると、クラフトマンの“ギルド”に対して、アーティストの“アカデミー”と呼ばれる組織ができ、アーティストは自身の身分を保護されるようになります、
そして、産業革命後、機械の発達で、クラフトマンの立場にかげりが出てきます。
又、手工業の衰退と、モチベーションの低下がそれに拍車をかけます。


そして、いよいよ知識作業主体のアーティスト、肉体労働主体のクラフトマンの職能分離が明確になり、現代に至ります。

『アーツ&クラフツ運動(1850-1914 Arts and Crafts Movement)』は、イギリスの“近代建築運動・芸術運動”で、後にヨーロッパ各国で始まる“近代建築運動・芸術運動”の先駆けとなります。


ウィリアム・モリス 壁紙『アート』とは、芸術(外観、意匠:視覚として認識できる物体の形状や色彩)


『クラフト』とは、工芸(製作、製造:アートを達成する為に適切な架構法で物体を完成させる行為)


イギリスで18世紀に始まった産業革命は、手作業による生産システムを機械による生産システムに置きかえましたが、中世の職人が丹念に作っていた製品を、その精度同等に工場で製造する技術はまだ伴っておらず、結果、工場による生産は、単なる劣悪な製品の大量生産と一部の人々の目には写りました。


工場の製造能力がその程度であれば、製品は、形状(アート)も製造(クラフト)も機械の能力に適合するようデザインされるべきでした。


ウィリアム・モリスそこで、イギリス人のウィリアム・モリス(1834-1896)は、中世の職人たちが誠実に製品を製作していた時代を回顧し、『アート』『クラフト』の融合を目指します。


モリスが求めた融合とは、『アート』『クラフト』も、同一人物が一貫して携わる事でした。


仮に『アート』『クラフト』を別々の人間がそれぞれ作業を分担して受け持つとすると、人による考え方や理念が100%同じでないのと同様に、思想性、コンセプトの伝達欠如が起こり、その結果、製品の品質に欠陥が生じるという事です。


又、製品の形状や色彩(アート)には意味があり、それを製造(クラフト)する為の架構法、構造にも意味があります。

つまり、『アート』を達成する為の『クラフト』であり、適切な『クラフト』であるからこそ達成できる『アート』です。

その為には、『アート』『クラフト』の密接な関連性、一貫性が不可欠だとモリスは考えたのです。


レッド・ハウス『アーツ&クラフツ運動』の拠点は『赤い家(レッドハウス)』と称された、名前のとおり外壁は赤色のレンガで構成された建物で、室内は、中世の室内装飾品、家具調度品が据えつけられていました。


しかしながら、『アーツ&クラフツ運動』の理念である手作業による生産システムは、時間も手間もかかり、結果、最終成果物の価格は必然的に高くなります。

すると、モリスの目指す“大衆の為の物”ではなくなるという矛盾が発生しました。


結果、モリスは、社会主義国であれば、自身の理想を実現できると考え始めました。


このように、モリスの理想には限界があったのですが、後にヨーロッパ各国で起こる“近代建築運動・芸術運動”に強く影響を与え、とりわけ、機械生産の問題点の提起、建築、工芸品、生活用品の品質向上の必要性について多くの人に意識づけさせた点は大きな貢献でした。

そして、モリスの理念は、後の『ドイツ工作連盟』で受け継がれ、さらに理念が進化します。


最後に余談ですが、『アーツ&クラフツ運動』は中世の手作業で製造する生産システムを理想とし、その一方工場による機械生産を否定する考え方で、機械を理想とする後の『モダニズム』の理念とは相反します。

近代には建築材料の革命的な発明がありました。


“鉄”“ガラス”“コンクリート”です。


パリ エッフェル塔“鉄”は古代より利用されてきました。
しかし、それは主として建物の構造を補強する部材として使われるに過ぎませんでした。

そして、近代に入り、いよいよ柱・梁など主要構造部としての使用が始まります。
つまり、鉄骨構造の建築物の誕生です。

写真はパリ万博時に建設された『エッフェル塔(1889年)』です。

当事はそれまでにない無骨な鉄骨の塔の建設につき賛否両論があったようですが、近代において鉄骨が主要構造部に使用する事が可能となった事、つまり近代の技術革新を象徴する建物と言えます。


ガラスの回廊“ガラス”は、ゴシックの大聖堂などで使用されてきたステンドガラスはあくまで色ガラスで、透明ガラスが使用され始めるのはこの時期からです。

そして、無色透明のガラスが建物に使用されることで、外装は軽快に、又、室内空間を明るくする事が可能になりました。


ル・コルビュジェ ロンシャンの礼拝堂“コンクリート”は、古代ローマから使用されてきた材料ですが、古代ローマ時代のように火山灰や砂利などを混ぜ合わせて材料を硬化させるのではなく、人工的にセメントを作り、骨材と混ぜ合わせるいわゆる今日のコンクリートが発明されたのです。

さらには、鉄筋と組み合わせてより建築物の強度を向上させる試みも始まりました。

コンクリートは型枠に流し込んで一体整形される特質より、自由な形状の造形を可能にしました。

写真は近代建築の三大巨匠の一人、ル・コルビュジェが設計した『ロンシャンの礼拝堂(1955年)』ですが、コンクリートの彫塑性を利用してデザインされた建築物の一例です。


これらの建材の登場により、これまでの建築生産方式、構造の架構法に大きな変化が生じます。

そして、その結果、建物の外装表現の可能性が広がり、俗に言う“モダニズム建築(近代建築)”が後に確立される事になります。

産業革命後、近世以前のヨーロッパでは貴族たちなど上位に位置する人達しか所有できなかった品々が一般の人々の手にも渡るようになり、又、物の種類も増え、人々が豊かになり、生活様式も変化してきます。


生活様式の変化に伴い、それに見合う建築物の構築が望まれるのですが、それまでの建築物に対する考え方がすぐに変化することはありませんでした。


ウィーン 国会議事堂19世紀初頭までは過去の様式を模倣する“リバイバル様式”、あるいはルネッサンス期のような厳格なオーダーやモチーフの使用でなく自由自在にそれらを組み合わせる様式、つまり“折衷様式”で各国の主要な建築物が建てられました。


“リバイバル様式”“折衷様式”が流行した時期は、古典様式から学ぶべきものを学び、利用するべきものを利用し、次世代に飛躍して行くために試行錯誤された時期だったと言ってもよいかと思います。


ロンドン 国会議事堂そして、この時期の建物が、現在でもヨーロッパ各国の重要な建築物として使用され続けているという事実により、この時期の建築物の生産が表面的な古典様式の模倣だけではなかったと言えます。

左は“ビッグ・ベン”の通称で親しまれているイギリスの国会議事堂ですが、“リバイバル様式”の代表作です。


しかしながら、生活様式が変化するに伴って、これまでの建築物、装飾品、日用品の本来のあり方を模索する “近代建築運動・芸術運動”が19世紀前後各国で始まり、“リバイバル様式”“折衷様式”もいよいよ終焉を向かえます。

18世紀のイギリスは、海外に広大な植民地を持っていました。


産業革命 機織り広大な世界市場には商品の需要があり、その結果、手工業では供給に間に合わず、手工業に変わる各種機械の発明が始まりました。

そして、イギリスで始まった“産業革命”は、それまでの人間の“手”で行う生産システムを工場にて“機械”で生産するシステムに置きかえました。


しかし、実際には、外観は手工芸品であるかに見える商品が工場で模倣して製造されるに過ぎなかったのです。
と言うのは、当時、職人が丹念に作っていた製品とまるっきり同等のものを機械化して作る技術はまだありませんでした。
極論すると粗悪品の大量生産をしていたとも言えます。


又、産業革命により一部の中世の職人たちは単に工場で働く労働者となり、伝統的な技術と誇りを失っていく事にもなり、結果、ものづくりは、無教養な製造業者に委ねられていたと言っても過言ではないかと思います。


さて、手作業なら、それにふさわしい構造、架構法があり、結果として形態が出来上がります。
構造はその構成美を演出し、手の込んだ造形や装飾に職人ひとりひとりの心がこもります。


一方、工場であれば、製品の形態やその構造が過度に複雑でなく、シンプルに構築されていればこそ、短時間で製品を大量生産できる生産システムのメリットが最大限に活かせるはずです。


果たして、“生産力は高いけれど粗悪品を生み出す可能性もある工場は豊かさを求める近代生活にとって有効なのか、あるいは、中世の手工業がやはり良いか”という葛藤の中、ヨーロッパ各国で様々な“運動”が始まっていく事になります。

ヨーロッパの文明の始まりから近代へ至る歴史を辿ってきましたが、おしなべて多くの人が自由に物事を述べ、自由に物を選択でき、自由に生活する事が可能となったのは、“近代”以降ではないかと私は考えております。


私たちは日本に住んでいますが、現代の生活において、近代以前つまり明治以前の先人の方々が営んできた衣食住のスタイルをそのまま踏襲している事はもちろんあるものの、変化してきたスタイルも少なくないのではないかと思います。


むしろ、衣食住の各分野において、ヨーロッパやアメリカの生活様式が、近代以降に日本へ伝来し、当事それらが合理的で衛生的だと判断し、その結果現在の私たちの生活様式の標準になっている事が少なくないと思います。

例えばジーンズを履いたり、冬に毛織物をはおったり、フォークとナイフを使って食事をしたり、食事にナプキンを使ったり、座式から椅子式への転換などです。


さて、私たちの生活の身の回りには建築、家具、機器、日用品など“物”であふれています。

そして“物”が私たちの生活をより便利に、そして快適にしてくれています。

そして“物”は見てくれが悪いよりは良いに越したことが多いと思います。

そして極論しますと、“物”は、“デザイン”とその“機能”により評価する事が出来ます。


言わば“物”は、いかに“機能”性を高め、みてくれ良く“デザイン”されるかがポイントです。


さて、私たちの今日の生活様式にとりわけ大きな影響を与えてきたと考えられるヨーロッパ、そして、アメリカの近代において、“ものづくり”、そして、“デザイン”、とりわけ、“モダンデザイン”がどのように確立されてきたのか、これからはその過程を辿っていきたいと思います。

近世ヨーロッパの時代、ルネッサンスにより、古代ローマや古代ギリシャ時代のような人間らしい生活を取り戻す運動が試みられましたが、実のところ、それは一部の貴族や領主たちが享受できた程度で、押しなべて多くの平民の生活は自由ではなく、さらに平等にはほど遠い状態でした。


そんな状況下、イギリスでは1688年に名誉革命が起こります。
又、王宮では贅沢三昧、浪費三昧だったフランスでも1789年にフランス革命が起こります。


レ・ミゼラブル名誉革命、フランス革命は共に“市民革命”と呼ばれますが、その目的とは貴族と平民の身分の差をなくす事でした。

すなわち、貴族と平民の身分の差がなくなる“市民社会”が成立する時期をもって近代ヨーロッパの始まりと言えます。

左は、フランス革命を背景に個人の自由の獲得、そして愛を題材に描かれたビクトル・ユゴーの文学“レ・ミゼラブル”のミュージカル版ポスターの一部ですが、多くの国で、そしてオリジナルの英語以外に各国版も上演されています。

私は、ニューヨークのブロードウェーで観ましたが、皆様にも是非ご鑑賞をお薦めしたい作品です。


俗に言う“近代的○○”という表現は、あてはまる言葉がどんなものであるにせよ、人間的な進歩、自由の獲得といった進歩を示す感じが強く、ホッとします。


ナポレオンの戴冠式フランス革命後、ナポレオンがヨーロッパ全土に革命の波を及ばせ、ヨーロッパ各地域で市民が自由を獲得し始めます。

そして、国境がはっきりしなかったヨーロッパで、いよいよそれぞれの国家の領域が明確になり、それぞれ“主権国家”が誕生します。



国家の主権が明確になり、市民が自由に生活を開始するにしたがって、物が必要になってきます。
さらに各国間の交易が盛んになり、産業が栄えます。


イギリス産業革命とりわけ当時海外に数多くの植民地を持っていたイギリスでは、製造業、加工業が他国よりも一足早く活発になり、“産業革命(1760年~1830年)”が始まりました。

左は昨年のロンドンオリンピックの開幕式で当事の産業革命を演出した場面ですが、イギリスが世界に先駆けて起こした産業革命はその後の世界に工業化、生産技術の革新をもたらしました。


最後に余談ですが、“市民革命”は、資本主義から社会主義・共産主義社会の実現を目指した“プロレタリア(賃金労働者)革命”とは性格を異にします。

つまり、市民には“資本家”“労働者”の区別があります。

同じ市民でも、資本家は労働者を使用しますので、身分は不平等です。

つまり、“市民革命”が目指したのは、市民の“自由(貴族と市民を対等にする事。)”ですが、さらに“市民の平等(資本家と労働者を平等にする事)”までもを目指したのが“プロレタリア革命”なのです。