十字架のことが分からない。
いやそうは言っても、何か分かってるはず。
きっと自分が分かってることに気付いてないだけ。
ずっとそう思ってきた。
受洗しても、いまいちピンとこない。
最近知り合った人がいる。
私と違って、とても熱心に聖書を読んでいる。
何度も繰り返し通読し、疑問を持ち、
その疑問に自ら取り組んでいるようだ。
ある日、この知り合いが1つの仮説を
私を含む複数人へシェアをしてきた。
私は初め、それを見て違和感を感じた。
これは何か違う、という根拠のない直感を抱いた。
だが、私は聖書も日本語も上手くないので
知り合いに対して、小出しに違和感を表すことしか出来ず、
最後まで切れ味の良い言葉はかけられなかった。
これは私が間違っているだけなのか。
それならそれでいいのだが。
しかし、もし違うなら、
この知り合いは、不必要な傷を今後沢山被るのだろう。
そんなイメージが私に浮かんだ。
あまり多くを語らず、そのまま一晩心に留めておくことにした。
翌朝になり、謝罪メールが送られてきた。
どうやら違っていたようである。
そのメールを見た後、私も色々あったために少し体調を崩した。
体調不良のなかで、果たして自分は頑張れたのだろうかと考えていた。
考えた結果、そんなことよりも知り合いが
無駄な試練をくぐらずに済んだこと
そのほうがはるかに勝って喜びだという平安を感じた。
今まで十字架のイエスを考えるとき、
どんなに辛くて苦しかったかばかり、
理解ようとしていた気がする。
希み。
希望が苦しみより勝ってしまったがために
神と共にあって。越えられないものを越えてしまった。
そういうこともあるのかもしれないと思った。



