患者を見送った後、詩音と共に家に帰ろうと時間外出入口から外に出ると
冬のキンと冷えた空気が頬をさらう。

「先生、今日は満月です」

詩音の言葉に空を見上げると、澄んだ空に浮かぶ真ん丸な月とたくさんの星。

「月にはうさぎが住んでるって、本当ですか?」

無邪気な質問に苦笑しそうになるのを堪え、「どうだろうな」と答えると
「僕はいると思います」
詩音は本気でうさぎの姿を探しているかのように、熱心に夜空を見上げて目を凝らす。


まだまだ子供っぽさは抜けそうもない、そんな詩音の横顔に
はあ、と小さく吐いたため息が白く浮かんだ。

「早く帰ろう。風邪を引く」

まだまだ月を眺めていたい様子の詩音に声を掛け、自宅に向かい歩き始めると
隣を歩き始めた詩音がまた歩を止め、前方に向って指をさす。


「何だ」

「岩見先生の看板、壊れてます」

「看板?」


指した指の先、街灯に照らされた岩見弁護士事務所の横付けの看板の角が
何かがぶつかったのだろうか、ひび割れて欠けている。


「……あ」

肌寒い夜。
欠けた看板。


その光景にかつて私が詩音を見つけた日の夜を思い出す。

あの看板が欠けていなかったら、果たして私は詩音を見つけることができていたのだろうか。看板を気にせず、視線をあの場所に向ける事がなかったなら、もしかしたら詩音はあの寒い路地で朝まで痛みと戦っていたのかもしれない。

そう考えれば、岩見の雑な性格が幸いしたのかもしれんな。

そんな事を考えているうちに、詩音は何かを思いついたかのように再び歩き出すと、何故か家の前を通り過ぎ、岩見法律事務所の看板の下まで行って立ち止まった。
 

それにつられて私も何となくそばまで歩くと
詩音は私の方を見てから次に看板を見上げ、そして視線を落とし岩見法律事務所と隣家の間の細くて薄暗い路地を見た。

そこは私が詩音を見つけた場所。

冷たい空気。
月明りと街灯に照らされた、もの悲しい街路樹。
手入れの行き届いていない植え込み。

あの時と殆ど同じ光景をじっと見ていた詩音は、緩やかに微笑み静かに口を開く。


「ここで先生が僕を見つけてくれた時も、看板、壊れていました」

「覚えているのか?」

「はい。僕、ずっと空を見てたから。
 看板もずっと見えてました。
 僕、あいちゃんが教えてくれたとおり、空を見てお願いしてました。
 魔法使い、助けに来てくださいって」

「……」

「そしたら先生が助けてくれたんです」



白い足。
息をしているかも分からない程、冷たく冷え切った細い身体。
抱き上げたときのその軽さが手に蘇る。


「先生。僕、来週には20歳になります。
 20歳になった時の約束、もう言っていいですか?
 僕、もう言いたくて、我慢できません」

「誕生日が来ても、考えが変わらないならいいが」

「はい!変わりません。だから言います」

「ここでか?」

「はい。ここで、です。ここで言いたいです」


冷たい空気に晒されたこんな場所で言わなくても。

それにまだ心の準備が。


とは思ったが、正直にそうとは言えず急に緊張が走る心情を見透かされぬよう
頷いて見せると、詩音はすーっと息を吸い、そして白い息をゆっくりと空中に吐いてから
にこりと微笑んだ。

そしてゆっくりと自分の言葉を紡ぎ始めた。