新入生の皆さん、ご入学おめでとうございます。

 

初めましての人は初めまして、そうでない人はお久しぶりです。

たけち。と申します。

 

今回は、新学期初更新、高校生活を終えて新たな新生活を始める方もご覧になられている(かも)(見てくれ)ということで、僕が行ったとある三つのライブを題材に、「コンテンツの終わりと始まり」について書いていこうかな、と思います。

 

 

μ's Final LoveLive!〜μ’sic Forever♪♪♪♪♪♪♪♪♪〜

今まで僕は、三つのコンテンツのFinalライブを目にしてきました。

 

その一つ目が「μ's Final LoveLive!〜μ’sic Forever♪♪♪♪♪♪♪♪♪〜

言わずもがな、大きな2.5次元コンテンツ、社会現象とまで言われたコンテンツのFinalライブです。

 

//(ここから何行かオタクの十八番自分語りなので読み飛ばし可)

僕はこのライブが人生初のライブでした。

 

恐らく、僕と同じオタクもたくさんいたでしょう。初めてのライブが最後のライブ、というオタク達が。

この時、「コンテンツの終わり」の意味を理解していなかったオタクは、正直トラウマになりました。

 

「ラブライブ!」と僕の出会いは高校一年の春、高校入学のタイミングでスマートフォンを買ってもらった僕は「スクフェス」をいつの間にかダウンロードし、なんとなくプレイし、気が付いた時にはどっぷりとその沼に使っていました。それまでオタクといっても「カゲロウプロジェクト」くらいしか好きなコンテンツはなかったため、「アニメ」「音ゲー」「声優」「ライブ」のすべてを「ラブライブ!」から教わり、「真のオタク」に覚醒させられたのです。

 

そんな中、とある12/5。特番「μ’sのこれまでとこれから」にて、その僕の生みの親といっても過言ではないコンテンツが「Final」を迎えると。「解散」とは明記していないにしても「Final」の表記がそこにはありました。

 

ライブ当日、もちろん始まるまではドキがムネムネして極めて興奮していたわけですが、時間が経つにつれて「終わり」というものが近づいてくるわけです。「LIVEの終わり」ではなく「すべての終わり」が。そりゃトラウマになりますわ。楽しい時間がたてばたつほど、永遠の終わりが迫ってくる間隔。そして、終わってからもその「終わり」というものに苦しめられる。僕は初めてのライブで深い傷を負い、「何で終わるんだ」と嘆きました。

 

//(ここまで)

 

 

が、このコンテンツにおいては、「限られた時間の中で精一杯輝こうとするスクールアイドルが好き」という(僕の最も好きで)儚いセリフが、「終わること」を肯定する。桜は咲いて散る、花火は輝き燃え尽きる、それと同じ「終わること」に意味を、それも相当大きな意味を作り上げているのです。そして、最も盛んな時期に派手に終わりを迎える。コンテンツの終わり方としては最も美しく、そのころの僕には否定できない絶対的な何かがそこにはありました。

 

 

ミルキィホームズ ファイナルライブ Q.E.D.

 
 
二つ目は「ミルキィホームズ ファイナルライブ Q.E.D.
μ’s Finalから、心の拠り所を求めて受験期にはまったのが「ミルキィホームズ」です。
次はライブ行きてえなあ~~とか言いながら、イベ被りで別の現場に行っていたある日のTwitterにて、「ミルキィ ファイナル」の文字を目にしたのです。
正直このコンテンツは終わると思っていなかった、これだけはずっと続くと思ってた矢先の出来事でした。
 
コンテンツの終わりにこれ以上ないトラウマを抱えていた僕は(というか普通に誰もが嫌なことなんだが)(なんならもっと昔から応援してた人たちはドキツイんだが)もちろんチケットを取ったものの、当日もwkwkしながらも、「終わること」への恐怖を抱えながら明治大学入学式の会場()に訪れていました。
 
「終わること」に何か元から重要なファクターのあるコンテンツではなく、それこそ「何で終わるんだ」という思いを抱えていたオタクが多かったでしょう。ライブが進むにつれて迫りくる「終わり」と対峙し、て、いたはずでした、が。。。。
 
 
 
ライブが終わったとき、悲しくて泣いているオタクはいませんでした(マジで見当たらなかった、ホントに)
これが「ミルキィホームズ」なのか、と。「最後は笑顔で!」と言われて、本当に笑顔で見送れるかと言ったら僕は無理です。でも、そうさせる、それだけ大きな力を持つコンテンツ、僕に「コンテンツの終わり」へのトラウマを取っ払ってくれた。
「コンテンツの終わり」は確かに悲しいものではあるが、それでも涙を流さない終わりもあるよと、教えてくれたのが、ヨコハマ1の名探偵「ミルキィホームズ」でした。
 
 

Wake Up, Girls! FINAL LIVE ~想い出のパレード~

 
つ目は「Wake Up, Girls! FINAL LIVE ~想い出のパレード~です。
これに限ってはハマったのが2月下旬、FINAL直前、というのもあり、あまり語ることができません。(というか終わり方の闇が深すぎる
が、その短期間でも”異常”なまでにハマってしまいました。
というのも、アニメだとか曲だとか、様々な良さがありますが、僕の中ではとあるオタクの発言が関係しています。
 
「WUGのワンマンはいつも2000前後くらいの会場」
「3月に解散が決定」
「最期に”聖地”SSAでライブをやると思う」
 
そしてその言葉の通りに「FINAL SSA公演」が決定
最後の最後に今までの数倍の大きさの会場、聖地の会場でライブを行い幕を下ろす。
まるで「何か」を思い出させるようで、その儚さに惹かれたのかいつの間にか僕はSSAに足を運んでいました。
 
そこで僕が感じたのは、「何で終わるんだ」という感情でしたが、そこに昔の僕の終わってほしくないというエゴは無く、ただただそれを受け入れ、彼女たちの姿を目に焼き付けていていました。
 

終わり

コンテンツの終わり方は多種多様で、それぞれに見合った終わり方があり、それぞれがそれぞれの事情で様々な終わり方を迎えます。
 
 
しかし、それぞれに共通していることがあります。終わるときに「終わりは始まり」とか、「これからもよろしく」とか、言うんですね(これがさらに涙腺を崩壊させるわけですが)。良い言葉です。
そうなんです、そうなんですが、僕が言いたいのはこれは「終わらない」ことを言っているのではないこと。
 
 
「終わった後の始まりは”別の何かの始まり”」だし、「これからもよろしく、と言われても終わるものは終わってしまう」から。終わり、ってのはそういうもので、終わったら誰が何と言おうと終わりなんだと。
この言葉に固執し、「終わらない」と思うと受け入れることはできはません。しかし、その終わりを受け入れて先に進まなくてはならない
なんだかんだこれを読んでいる人は、誰もが「終わり」を経験しています。「中学」や「高校」というコンテンツ(!?)の終わりを経て今これを読んでいる。どんなに嘆いても一生「中学」「高校」生活に戻ることはできない。しかし、その次の「大学」が始まりつつも、中高の友達ともいまだに連絡を取っているでしょう(僕は友達がいなかったのでよくわからないが)。これが「終わりは始まり」とか、「これからもよろしく」ってことなんだろうと、そう思います。
 
 
最後に、僕の一番好きな曲の歌詞を紹介します
 

ずっとここにいたいね 好きだよみんな

でもね旅立ってくって分かってるんだよ

たくさんがんばってきた時間が愛しい

最高のツナガリを いつまでも大事にしよう

 

ー『WATER BLUE NEW WORLD』(作詞:畑亜紀)

 
「終わり」がどんなに嫌でも、それは訪れます。
 
これからの人生、様々な「終わり」に直面するでしょう。
 
「終わり」を受け入れることはそれを忘れることではない。
 
「終わり」を受け入れても、それは決してなくならない。
 
受け入れて大切にして、新たな始まりを迎える。
 
そうして人は成長するのだと。
 
 
なんて、この三つのライブを経て感じたオタクのブログでした。
 
 

 
 
自分でも何が書きたいのかマジでわからなくなってしまったのは秘密。。。