玲奈
―玲奈は古い映画を見ていた。
オードリーヘップバーンの、美しい横顔に見惚れていた。
でも心は上の空。
見たいビデオなんてなかった。
強がりの彼女が心配だった。
春も終わりに近づいた頃、私はいつものようにピアノのレッスンに向かう途中だった。
「まだ早いな・・・。」
腕時計に目をやるとまだ6時。7時からのレッスンには少し早すぎたので、前から欲しかったバックを買いに行くことにした。
この間、麻子と買いに来た時には欲しい色が売り切れであきらめたけれど。
違う色でも欲しくなってしまうのが玲奈の悪い癖だ。そして使わないままお蔵入りになってしまうのがいつものパターン。
「買い物ってやめられないのよねー。」
私と麻子は口癖のようにそう言った。
麻子とは、中学からの同級生だった。話を合わせた訳でもなく、高校も大学もずっと同じ。
親友なんて言うと照れくさいけど、きっとこういうのを親友って言うのだろうと思う。
私がそのお店に着いてドアを開けると、そこには2つの驚きが待っていた。
ひとつは、欲しかった色が再入荷されていたこと。これでお蔵入りにならなくて済む。
もうひとつは、親友の彼氏が違う女性を連れていたこと。
腕を組んだその2人に、私は声をかけることができなかった。
その日の出来事を胸にしまってから、数週間が経っていた。
麻子の様子は日に日に変わっているような気がしてならなかった。
ある日、麻子が素敵なワンピースを着ていたので近づいていくと、いつにない重い表情をしていることに気が付いた。
「今日は嫌な夢でも見たの?麻子。目が笑ってないわよ。」
こんなとき、どうしてもっと気の利いたことが言えないんだろう。
麻子の表情はさらに重くなったように感じられた。
「和輝と別れることになりそうで。」
そう言った彼女の横顔が目に焼き付く。
封印したはずのあの日の光景が目に浮かんでくる。
もう、玲奈には何も言えなかった。
大事な講義の途中なのに、私は和輝のことばかり考えていた。
やはり、別れの原因はあの女性なのだろうか。
見たところ、和輝よりずっと年下に思えた。甘えた声と瞳の可愛い女の子。
そしてもっと印象的だったのは、和輝のまなざし。
彼女を見つめる、やさしい目。
2年前、麻子に初めて紹介してもらったときの、和輝のそれと同じだった・・・。
「今日はバイトも無いし、ピアノのレッスンもないの。見たいビデオもたまってるし、夜は遅くまで起きてるから。」
麻子が教室から出てくるのを見計らって、用意していたセリフを言った。
私の気持ちなんてお見通しなんだろう。
ちょっと笑って、ありがとうと小声でささやくと足早に去って行った。
帰りがけに本屋により、いくつかの洋書とファッション誌を、そして隣のストアで紅茶を買った。
きっと今夜訪ねてくるだろう、親友のために。
蒸し暑い部屋に冷房を入れ、お気に入りのビデオをつける。
「長い夜になりそうだわ。」
麻子
―麻子は走っていた。
絶対泣かない。
きっとあの部屋に着けば泣いてしまう。
それまで涙はとっておくんだ。
私の一番大切だった時間にさよなら。
もう二度と来ない、20歳の夏。
「大事な話があるから、学校帰りに家に寄ってくれないか」
和輝にそう言われたのは昨日の夜、寝る前にかかってきた電話でのことだった。ここのところ電話も少ないし、会いに行ってもいつも仕事だと言って出かけてしまう彼に、すこし不安を感じていた。
「・・・とうとうきたのね。」
私は女の勘で、この恋の終わりを悟った。
その日の朝は、念入りに髪をブローし、まつげもビューラーでピンと上向きに、お気に入りのリップグロスをつけて、真新しい下着を身につけた。
「戦闘体制は整った・・・かな。」
キャンパスではいつもと変わりなく、落ち着いて過ごしていたはずなのに、親友の玲奈には見抜かれた。
「今日は嫌な夢でも見たの?麻子。目が笑ってないわよ。」
誰にも気づかれなかったのに。7年の付き合いとは恐ろしいものね・・・。
情けない半面、こんな親友がいる事をうれしく思う。
「和輝と別れることになりそうで。」
やっと作った笑顔でそれだけ言えた。
玲奈は、そう、と言ったきりこっちを見なかった。
ただ黙って、手に2つ持っていたコーヒーをひとつ、私に差し出した。
最後の講義では何も頭に入らなかった。
窓際にすわり、外を見ながら和輝と過ごした2年間を考えていた。
出会ったあの日から、恋に落ちたあの日のことも。
初めて二人で見に行った映画で、泣きすぎて目が真っ赤になった私を抱きしめてくれたこと。偶然同じ本を大切にしていたことに、運命を感じたこと。和輝の就職が決まった日、一番に走って会いに来てくれたこと。手をつないであるいた、桜並木。
定年退職したら、またこうやってこの道を2人でを歩こうなんて・・・私は笑い飛ばしたけど「俺は本気だよ」なんて、いつにない真剣な顔で。
「嘘つき。」
声に出して言ってみたら、前の席の子が振り向いた。
帰り際、玲奈がこう言った。
「今日はバイトも無いし、ピアノのレッスンもないの。見たいビデオもたまってるし、夜は遅くまで起きてるから。」
聞いてもいないのに、そっけなく言う彼女。こういう言葉ってありがたい。
今夜は玲奈に愚痴って気分を晴らすとするか。そう思ったら少し足取りも軽くなった。
和輝の住むアパートに着いたのは、6時半を回った頃だった。
就職が決まった時に一人で暮らし始め、すぐに合鍵をくれた。ドアにも、キッチンにも、バスルームや部屋にも、思い出がたくさん詰まっていて入るのが辛い。
ためらっていると、和輝が階段を上がってきた。
「鍵忘れたの?」
そう言ってポケットから鍵を取り出し、ドアに向かう。
見慣れた背広姿。新入社員の頃はどこかぎこちなかったスーツも、今ではちゃんと着こなしている。
和輝に続いて、部屋に入った。
「話って?」
まだ電気もつけていないというのに、私は話を切り出した。
早く、この思い出のたくさん詰まった部屋から出たかった。
一刻も早く。
そうじゃないと、弱くなってしまいそうだった。心が弱くなって、前に進めなくなってしまいそうだった。
そうなる前に。一刻も早く終わりにしよう。
「麻子。」
着替えもせずに座り、少しの間黙っていた和輝が口を開いた。
「うん。」
自然に振舞っているつもりだけど、彼の顔が見れなかった。
「俺、好きな人が出来たんだ。」
覚悟はしていたことでも、目の当たりにするとやっぱりショックは大きい。
「うん・・・。」
「麻子のことも好きだけど、彼女を放っていられない。ごめん。ほんとごめん。いつか今日のこと後悔する日がくることもわかってるんだ。だけどどうしても、彼女を一人に出来ないんだ。」
「うん。」
そう。あたしはこの人の、このやさしさが好きだった。
やさしくて、暖かくて、正直で・・・こんな終わりには少し残酷な。
「和輝、私わかってたよ。だから今日はこんな大きいバックを空にしてきたの。置いてある荷物、持って帰らなくちゃね・・・。」
精一杯明るく振舞ったつもりだった。
「このサボテンはあげるけど、こっちのポストカードは持っていっていいかなぁ?お気に入りなの。」
思いつく荷物を詰め込む。思い出と一緒に、ぎゅうぎゅうに。
和輝はずっと黙って見ている。
やさしくて暖かくて正直な、大好きなあの目に、寂しさを浮かべて。
「これ、鍵。・・・今までありがとう。さようなら。」
振り返らずに玄関を出た。和輝が何か言っていたけど、聞き取る余裕はなかった。
荷物は重いけど、玲奈のところまで走って行こう。
なにも考えず、全力で走ろう。
次の幸せまで、全力で。
