今日は、ローマ人への手紙12章1節~2節までのところから「聖い生きた供え物」と言う題で、みことばから恵みを頂きたいと思います。
ローマ書は、全体が16章というとても長い手紙ですが、二つの内容によって構成されています。
一つは1章~11章で、ここにはどういうことが書かれているのかと言うと、神様がこんなにあなたのことを愛しているのだと言うことを、パウロは論理的に記しています。神学的用語でいえば「救いの原理」と言います。どうしてそのことを徹底的に語る必要があったのかと言うと、私たちの信仰生活が義務的ではなく、自発的あるいは自主的で喜びに溢れたな信仰生活に導かれるためには、どうしても神の愛を知る必要があるからです。
もう一つの内容が、12章~16章です。ここには、クリスチャンになった後、具体的にどういう信仰生活を送らなければならないかについて教えています。
ですから、この全体の構成から分かることは、私たちの信仰生活が、喜びのある生き生きとしたものになるためには、先ず、十字架の愛を充分にし浸り味わうこと、そのことがあってはじめて健全で健康な信仰生活へと導かれるということです。もう少し違った表現をしますと神の栄光を表すキリスト者となるためだと言えます。
そういうわけで、今お読みしました12章からは、信仰生活の土台となる大切なことをパウロは教えているのです。これが16章まで続きます。今日は12章1節~2節から学びます。
1節をご覧下さい。ここには、生きた供え物とか霊的礼拝と言った様に、実に宗教的な言葉が使われていて、未信者の人がこの言葉を聞くと変な宗教儀式を思ったりするのではないかと思います。また、霊的礼拝と聞くと、何か神秘的なことをイメージしたりもします。奇跡やいやし、異言や預言の言葉が語られたりしないと霊的礼拝ではないのではないかと思ったりもします。
しかし、パウロがここで言っていることは、そういうことではありませんので安心して下さい。この1節のみ言葉はどういう意味かと言うと、自己中心的な生き方を改め、神のみ心に従った生き方をすること、それが生きた供え物であり霊的礼拝だということです。このことは、イエス様の弟子たちのことを見るとよく分かります(マタイ4章18節~22節)。
しかし問題は、そう言われてもなかなか神中心の生き方は無理という人もいるかと思います。それで苦しんでいる人もいますから。でも、そんな私たちも、霊的礼拝者になることが出来るのだとパウロは言います。それは、私たちが神の十字架の愛に触れることによって可能になるのです。
ですから、私たちの信仰生活が生き生きとしたものとなるためには、自分自身のからだを、聖い生きた供え物として神に捧げること、つまり、神中心の生き方にあると言うわけです。
ただ、ここでちょっと引っかかってくるものがあるのではないかと思います。それは「聖い」と言う言葉です。こんな私が神に受け入れられるのかという心配です。
安心して下さい。「聖い」と言う言葉は、神のものとして取り分けられていると言うことを意味します。ですから、私たちが自分で自分を聖くしてそのうえで神に献げると言うことではなく、ありのままの自分を神の御手に委ねる時、それは聖い生きた供え物ものとして用いて頂けるのです。
そして、もう一つ大切なのは2節です。「この世と調子を合わせてはいけない」と言う言葉です。「この世と調子を合わせるな」とは、この世の価値観に流されたり、人の目や人の評価を気にし過ぎると、キリスト者としての魅力を失ってしまうので気をつけなさい。と言うことなのです。その為にこそ「心の一新によってじぶんをかえる」ことです。時には、人との対立が生まれても福音的信仰の立場に立った選択をすることです。箴言4章23節
私たちクリスチャンは、どんな時にも神のみこころに生きることこそが、キリスト者として輝いた信仰生活を送ることができるのです。