めぐみキリスト教会

めぐみキリスト教会

人はパンだけで生きるのではなく神の口からでる一つ一つのことばによる。
               新約聖書マタイの福音書4章4節

主は、あなたを守る方。

主は、あなたの右の手をおおう陰。

主は、あなたを、行くにも帰るにも、

今よりとこしえまでも守られる。
   旧約聖書  詩篇 121篇5・8節

TOMOめぐみキリスト教会のホームページさくらんぼ

  http://megumi-christ-job.jimdo.com/

礼拝に、久しぶりの兄姉が来られると、本当に本当に嬉しいものです。

それが15年ぶりなら、なおいっそう。

小学生の頃来ていた男の子が、25歳の社会人になって、礼拝に来てくれました。

 

最初はだれかわからないはてなマーク

名前を聞いてびっくりびっくりマーク

素敵な青年になってて,感動飛び出すハート

 

両親が聴力に障がいがあり、さまざまな苦労をしてきた彼は、教会にあったアルバムを一緒に見ながら、泣きました。

昔は自分の気持ちをほとんど表さない子でしたので、ことばでも態度でも表現している様子に、さらに嬉しくなりました。

 

牧場が羊のために存在するように、教会は人のためにここにあります。 当たり前ですが。

昔の祭司たちが間違えたように、歴史の中で、教会も時々間違えてきましたね。

教会のための信徒ではない、すべての人々のための教会なのだと、牧会者も大牧者から学びます。

 

わたしは門です。

だれでも、わたしを通ってはいるなら、救われます。

また安らかに出入りし、牧草を見つけます。

ヨハネ10:9

 

羊の喜びが、牧者の喜びです。

 

 今日は、ローマ人への手紙12章1節~2節までのところから「聖い生きた供え物」と言う題で、みことばから恵みを頂きたいと思います。 

 

 ローマ書は、全体が16章というとても長い手紙ですが、二つの内容によって構成されています。 

 一つは1章~11章で、ここにはどういうことが書かれているのかと言うと、神様がこんなにあなたのことを愛しているのだと言うことを、パウロは論理的に記しています。神学的用語でいえば「救いの原理」と言います。どうしてそのことを徹底的に語る必要があったのかと言うと、私たちの信仰生活が義務的ではなく、自発的あるいは自主的で喜びに溢れたな信仰生活に導かれるためには、どうしても神の愛を知る必要があるからです。 

 

 もう一つの内容が、12章~16章です。ここには、クリスチャンになった後、具体的にどういう信仰生活を送らなければならないかについて教えています。 

 

 ですから、この全体の構成から分かることは、私たちの信仰生活が、喜びのある生き生きとしたものになるためには、先ず、十字架の愛を充分にし浸り味わうこと、そのことがあってはじめて健全で健康な信仰生活へと導かれるということです。もう少し違った表現をしますと神の栄光を表すキリスト者となるためだと言えます。

 

 そういうわけで、今お読みしました12章からは、信仰生活の土台となる大切なことをパウロは教えているのです。これが16章まで続きます。今日は12章1節~2節から学びます。

 

 1節をご覧下さい。ここには、生きた供え物とか霊的礼拝と言った様に、実に宗教的な言葉が使われていて、未信者の人がこの言葉を聞くと変な宗教儀式を思ったりするのではないかと思います。また、霊的礼拝と聞くと、何か神秘的なことをイメージしたりもします。奇跡やいやし異言や預言の言葉が語られたりしないと霊的礼拝ではないのではないかと思ったりもします。

 

 しかし、パウロがここで言っていることは、そういうことではありませんので安心して下さい。この1節のみ言葉はどういう意味かと言うと、自己中心的な生き方を改め、神のみ心に従った生き方をすること、それが生きた供え物であり霊的礼拝だということです。このことは、イエス様の弟子たちのことを見るとよく分かります(マタイ4章18節~22節)。 

 

 しかし問題は、そう言われてもなかなか神中心の生き方は無理という人もいるかと思います。それで苦しんでいる人もいますから。でも、そんな私たちも、霊的礼拝者になることが出来るのだとパウロは言います。それは、私たちが神の十字架の愛に触れることによって可能になるのです。

 

 ですから、私たちの信仰生活が生き生きとしたものとなるためには、自分自身のからだを、聖い生きた供え物として神に捧げること、つまり、神中心の生き方にあると言うわけです。 

 

 ただ、ここでちょっと引っかかってくるものがあるのではないかと思います。それは「聖い」と言う言葉です。こんな私が神に受け入れられるのかという心配です。 

 

 安心して下さい。「聖い」と言う言葉は、神のものとして取り分けられていると言うことを意味します。ですから、私たちが自分で自分を聖くしてそのうえで神に献げると言うことではなく、ありのままの自分を神の御手に委ねる、それは聖い生きた供え物ものとして用いて頂けるのです。

 

 そしてもう一つ大切な2節です。「この世と調子を合わせてはいけない」と言う言葉です。「この世と調子を合わせるな」とは、この世の価値観に流されたり、人の目や人の評価を気にし過ぎると、キリスト者としての魅力を失ってしまうので気をつけなさい。と言うことなのです。その為にこそ「心の一新によってじぶんをかえる」ことです。時には、人との対立が生まれても福音的信仰の立場に立った選択をすることです。箴言4章23節

 

 私たちクリスチャンは、どんな時にも神のみこころに生きることこそが、キリスト者として輝いた信仰生活を送ることができるのです。

犬山の夜桜 満開ですね。八重かな。

 

 

訪ねたお宅のリビングに八重桜。お部屋が華やいでました。

 

そして、こちらは一宮市の尾西公園の新緑。

家庭礼拝に伺うお宅の隣にあります。

 

 

教会庭のサクランボは、今月末に収穫できそうです。

春から初夏へ。今年もはや三分の一が過ぎていきますね。

平和な日本を感謝しつつ、戦争や戦闘の終結を心から祈ります。

 

 

 今日は、Ⅱコリント10章1節~6節までのところから「キリスト者の持つべき武器」と言う題で、みことばから恵みを頂きたいと思います。 

 

 武器と聞くと、私たちは軍隊が持っているような装備品などを思い浮かべますが、そういう武器のことではありません。じゃ、涙は女の武器だとも言われますが、そういうことでもありません。

 

 私たちが今日学ぶ武器とは、クリスチャンが身につけていなければならない品性における武器のことです。それが今日のみ言葉の中に記されているのです。

 

 今日の聖書個所を見ますと、この手紙が書かれた当時、コリントの教会の中には、今日でもあるような人と人との争いや、意見の対立による分裂分派などが起こっていて教会の中が混乱していました。それと共に、教会の創設者であったパウロ自身も、コリント教会の信徒たちから様々な批判を受けていたということも分かります。

 

 パウロと言えば、使徒の中の使徒と言われる程、その信仰姿勢には一本筋が通っていて、尊敬されこそすれども批判されるということはないはずです。しかし、どうしてそういう批判が起こったのかと言うと、パウロがコリントの教会を離れた後、十字架の福音をないがしろにする目的を持った偽教師や偽預言者と言った人たちが入ってきて、自分たちの存在感を増そうとして、四六時中パウロを批判していたからです。

 

 具体的に、パウロはどういう誹謗中傷を受けたのかというと、「肉に従って歩んでいる」と、つまり、クリスチャンらしからぬ生活をしているなんてことを言われていた様です(2節)。まじめなクリスチャン生活を送っている人にとっては、許しがたいことです。 

 

 私たちは、いわれのない誹謗中傷を受けたりするとカッとなって反論したくなるものです。パウロも弁の立つ人でしたからそうしたのではないかと思いきや、そうではなかったようです。大切なのは、そう言うとき私たちはどう対処するべきかということです。ここでパウロは、どう対処すべきかと言うことを身をもって私たちに示しているのです。

 

 10章1節をご覧下さい。ここには「柔和と寛容」という言葉をパウロは使っています。これがクリスチャンの最大の武器なのです。これは単なる優しさや我慢すると言う消極的なことではなくて、その人に対する愛がなければ決して結ぶことが出来ない御霊の実なのです。愛から生まれる柔和と寛容と言うことです。

 

 パウロがここで、「柔和と寛容」と言う言葉を使っている背景には、昔の自分の姿を思っていたのではないかと言われています。自分が今このように生かされているのは、キリストの柔和と寛容によってだということを身をもって経験していたからです。

 

 キリストと出会う前のパウロ(サウロ)は、キリスト者を迫害し教会を破壊していたのです。本来であれば、神によって真っ先に裁かれなければならない自分だったのに、そんな自分を救ってくれたのは、キリストの柔和と寛容があったからだと いうことを実を持って経験していたからです。 

 

 ですから、パウロはここで、本当の霊的な力とはキリスト者の武器はどういう物でなければならないのかということを、コリントの教会の信徒に示そうとしているのです。 

 

 聖書の中で、イエス様がそういう柔和と寛容な姿を表わしている場面があります。それはユダに対してです。自分を裏切るユダに対して「友よ」と呼びかけ続け、彼が悔い改めることを最後まで待ち続けておられたのです(マタイ26:47~50)。

 

 ですから、本当の霊的力、あるいは、人を造り変える力は、権威を振りかざすところにあるのではなく、キリストの柔和と寛容の中にあるのだと言うことを、私たちは忘れてはなりません。

白百合じゃないけど、イースターのユリです。

多様性?ウインク なーんちゃって。

きれいでいいね、と弱視の姉妹が言ってくれました。

 

イースター礼拝の中で、1月に生まれたSちゃんの献児式を行いました。

 

教会は、みんな親せきみたいなので、孫か子どものようにかわるがわる抱っこして、笑顔になります。

かわいいねえ。

神様の祝福の中で、心も体も大きく成長しますように!

みんなで祈りました。