今も昔も、どこの小学校にも存在する


いじめっ子。


いじめは、残念ながら無くならない。


「みんなの気を引くため」にとか、


「乗りで」とか、「受け狙い」とか、


「モヤモヤしているからうっぷんばらし」とか、


そんなつまらない理由だけで、


人を傷つけてしまう「いじめ」。


人を死に至らしめるという重大さを


認識しているか、していないかの違いは大きい。


陰湿かつ、残酷な形態にどんどんエスカレート


しているし、


SNSで攻撃するのも、いじめであるということを


認識していない人が多すぎる。


自分の価値がわからない人ほどいじめをする。


低俗な人間になりたくないと思えば、


いじめをしない。


言葉もいじめの武器になる。


小学校の時に、遊びでいじめる子供が


どれだけいるだろう。


トラウマになるのは、受けた側、


いじめた側は、覚えてもいない。


重要なポイントをドラマで指摘してくれたのが


このドラマだと思う。


その被害者や周辺の人が、復讐のために動き出したら、


こういう悲惨な結果になる。


悪いひとは、殺してしまえという理論が


罷り通ってしまうと、


自分もまた、落ちてしまう。


雑誌記者になったいじめられっ子だった2人が、


対照的に描かれていたのが印象的だ。


片方は、自分を変える努力をして、


復讐をすれば、自分を落とす事になると自覚し、


伸びて行く人、


もう片方は、復讐に手を貸し、固執し、


落ちて行く人。


いじめは無くならない。


けれど、一人一人が自分の


人間としての価値を上げて行けば、


行動も変わってくる。


被害者の心の傷は癒せられない。


でも、どうやって生き続けて行くか、


それにかかっている。


「ミステリという勿れ」のドラマの中で、


言っていたけれど、


海外では、いじめる側の方を病気だとみなすと。


日本は、いじめられる側が場所を変え、

逃げ出さないといけないと。


日本には、村意識みたいな古くからの独特な


感性を持っているから、余計にややこしい。




戸塚純貴さんが、ただのゲーム喫茶店の店長


だけで終わるとは思わなかったけど、


やっぱり首謀者の1人だったね。


間宮祥太朗さんの演技も良かった。


彼もどんな役も出来る俳優さんだ。



法で裁けない、悪い人が大勢いるのは確かだ。


殺してしまえではなく、どういう形で


制裁し、どう償ってもらうのか。


どうすれば、それ相応の認識を相手にわからせるか。


そういう点では、間宮祥太朗さん演じる主人公が、


自分のやった事を反省し、


自分のせいで命を落としてしまった友達を


供養し、自分の家族を守って生きて行くという


一番重い枷を背負って生きて行く事が、


彼の償いとなるんだろう。


ドキドキと考えさせられるドラマだった。