Strawberry Fields

Strawberry Fields

日々思うことを『ことば』にしてより自分を好きになれるように。

そして自分なりのStrawberry Fieldsを構築していく。

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ふざけんなよ


この歳で未来を閉ざされなくちゃいけないなんて





ふざけんなよ


まだやってないこと


見てないもの


知らないこと


感じたことのないこと


たくさんあんだよ





軽々しく


冗談で


ウケ狙いで


「死」を口にするヤツ


そんなあまちゃんなヤツ


バカじゃねぇの





本当にあんだよ


「死」は


軽々しく口にするお前のすぐ隣にあんだよ


年齢なんて関係ないんだよ


1歳だって29歳だって78歳だって


いつだって「ありえる」事態なんだよ


人事じゃねぇぞ


覚えとけ





一瞬も無駄にしてる暇なんてないんだ


全力で駆け抜けないといけないんだ人生は


それを教えてくれたあの子





わたしは全力で生きていくことを


あの子へ誓います

もし今「世界の終り」という題で絵を描こうとしてる人がいたら、

まず、今の私をモチーフにして描いてみたらどうでしょう。

必ずや最高傑作が描けるに違いありません。


人は皆それぞれ度合いは違っても必ず何かしらの闇を抱えて生きている。


私の闇も然り、あなたの闇も然り。


他人に見せたくないから「闇」。

頑丈なバリアを張った重たい扉の中。

暗い部屋の中でしっかり両手でぎゅって守ってきたそれが、

誰かにがさがさ土足で漁られて、いきなり日に照らされる恐怖。


考えただけでもぞっとする。

背中が粟立つ。


そして、それを自分が犯してしまったと思うと

余計に怖くなる。

責めたくなる。


もう後戻りできないくらいのこの気持ちが前のめりして

重たいその扉を壊してしまったのか。


やり直しはきかない。

撤回もできない。

今はもう、ただ祈るのみ。

それはまだ、地上では夏の残り香が本格的な秋に季節の台頭を譲るまいと、弱々しくも最後の力で立ち向かっていた頃だったように思う。

日の高い日中はろうそくの光ほどにほのかで柔らかな日差しが地上を覆い、日が傾くにつれて気温はぐっと下がり、陽だまりの面影は夜には完全に忘れ去られてしまうような秋の入り口。


夏の華やかさから秋のもの悲しさに変わろうという、1年のうちで最も繊細で慕情に含まれたこの季節の転換期に、私はこの上ないくらいの悲しみ、絶望、無力さの真ん中に立っていた。

私の周りにだけ何もないのだ。

ただ何もない。

以前は存在することを義務付けられたしかるべき何かがそこにあって、しかし何らかの理由でそのあるはずのものがなくなってしまったというような違和感や喪失感はなく、ただ最初から何も存在していないという完全なる無の空間。

私は悲しんでいるのか悔やんでいるのか、憎んでいるのか諦めてしまったのか、死んでしまったのか生きているのか、あらゆることの判断ができないでいた。

圧倒的な無の空間に強い力で縛られていた私は、ただ呆然とそこに縛られ続ける。

太陽が昇ってもその存在を示す温度を感じられないし、月が蒼く輝き始めても私にはまるで関係が無かった。

何度眠れぬ夜を過ごしたか数え切れない。

全てが水墨画のような色味のないひっそりとした世界に思えた。

思念のないぽっかりとあいた心が私を支配していた。


体中の水分は全て涙となって外に出され、深刻な水不足に悩むダムの映像のように、私の心は水の1滴も映らないただのからっぽな空間だった。


終わりの見えないのっぺりとした時間の経過に身を溶かすことしかできなかった私が、もう1度希望や憧れを抱いて目の輝きを取り戻せたのは、2人といない大切な親友のおかげだった。


完璧で強靭な無の壁に囲まれた灰色の世界から私を解放してくれたのは、コーンポタージュのカップスープとコンビニのプリン。


いつものようにうまく眠れずにただひっそりと夜を過ごしていたある日、家の前に停めてある自転車が少し遠慮がちにがしゃんと音を立てた。

そのすぐ後に携帯電話に一通のメールが。


「今自転車にサラダ・スープ・グミ・プリン入れておいたので食べてね!寒いから食べないと余計具合悪くなるよ!」


人と会ってもうまく話せないし感情のコントロールができなかったあのときの私を気遣ってそっとおいていってくれたのだ。


私は急いで外に出たがもう彼女の姿は無かった。

自転車のカゴにはコンビニで買ったサラダとプリンとグミとコーンポタージュのカップスープが。

どれも私の好物だった。

コンビニの袋を持って部屋に戻りその差し入れを見ていたら、私の中で急激に世界が色を取り戻し始めた。

心がココロを取り戻してあらゆる感情で溢れ、言葉にできないいろいろな思いが涙となって流れた。


ひとしきり泣くと私はサラダとプリンとグミをゆっくりと時間をかけて食べ、一口ごとに私は私自身を取り戻していった。

どんなに悲しみに追いやられても、私には救ってくれる親友がいる。

彼女のおかげで私は再び生を受けた。


儚い秋の始まりに体験した心の死と再生。

私の中できちんとまた季節が動き始めた。


未開封のカップスープは大事に机に飾ってある。

私はそれを見るたびに心の体温を感じる。

時間というのは誰にも等しく平等に流れる。


何もせず1分1時間1日過ごそうが、それは誰に対してもどんな場合においても全く平等に1分であるし1時間であるし1日であるのだ。

時間の価値や質というのは永遠に変わることのない不変の事実だ。

太陽が地球上の全ての生命の源であるように。


だから時間は人を欺かない。

誰に対しても平等に流れるものだからこそ、与えられた時間をどう生かすかで結果はだいぶ違ってくる。

自分のために、世のために、人のために何をするのか。

今の自分に何ができるのか。

何をしなくてはならないのか。

それを考えること、すなわち人生の命題といってもいい。

重要なのはいつでも自分の頭で考え判断すること。


人は何かを習得するために学習したり体験したりする。

そういう時間を積み重ねただけ自分に財産として蓄えられるからだ。

自分から学ぶ姿勢を見せること、そして学ぶ意欲によって行動を起こすこと。

この行動指針のもとに努力することによって人は何かを習得する。

言葉にするとありきたりな標語のように聞こえるが、その通りなのだ。

修飾の余地が無い。

自らの努力によって人は成長する。

もっと局地的な言い方に変えてみれば、自ら努力しない限り人は成長を遂げることはできない。


だから常にハードルはあった方がいい。

そのハードルが身の程以上に高すぎては超えられない苛立ちが募って途中で諦めてしまうかもしれない。

逆に低すぎては緊張感と挑戦しようとする野心が薄れハードルではなくなってしまう。

常に目線より数センチ上を見据えること。

この数センチを意識して何かに取り組んでいれば気づいたときには何倍にも飛躍しているだろう。


もっと高く。

もっと美しく。

際限の無いこの貪欲な目標を実現させるために人は生きる。

時間を積み重ねる。


時間というのは貴重なものだ。


Time is Money.


リセットのできないこの1度の人生、どうせならもっと高く美しく翔んでみたい。


言葉は感情的で残酷でときに無力だ。

それでも私たちは信じている。

言葉のチカラを。



最近放送されている朝日新聞のCMである。

新聞という情報媒体は、紙面いっぱいに写真と言葉の連なりで社会の動きを私たちに伝える。

テレビと違って動きや音声はなく、感情もない。

テレビの場合、悲しいニュースのときキャスターは少し悲しげな表情でいつもより少し悲しげな声色でそれを伝えるし、バラエティやお笑い番組は、絶え間なく笑い声や拍手を挿入したり、おもしろおかしいテロップを出して過度の視覚的聴覚的演出をするし、出演者は精一杯体を張って必要以上のリアクションをとってその存在をアピールする。


それに比べて新聞はとても静かだ。

静かすぎる。

風が吹いても波紋すら立たないシステムのしっかりした湖の湖面のようだ。

しいんと静まり返って真上に浮かんでいる蒼い月だけを水面に写しているような湖。


新聞は実に様々な動きを放棄しているようにも感じられる。
文章に一切の修飾は許されないし、演出も必要ない。

目の前にある事実をなぞるように、写真と文章でその事実を紙面に起こす。

漢字ドリルの書き順にそって点線の上を鉛筆で丁寧になぞっていくように。

だから新聞には第三者の感情というのが一切感じられない。

感情を挿入していては真実に至らないからだ。

感情を入れてしまうと書き手の主観が入り多かれ少なかれ事実に脚色が生じる。

事実をただ事実として報道するには、まず一切の感情を放棄することから始まる。

何も感じないし何も考えない。

いや、感情を殺し頭をニュートラルな状態にして、ひたすら事実を書く。


CMでも言っているように言葉は本来感情的で残酷でときに無力だ。

何かを相手に伝えたいとき、その思いを適当と思われる言葉に置換して発する。

でも言葉にした途端、伝えたいことの半分も伝えられないもどかしさに苛まれる。

日々頭で管理されている言葉の数というのは恐ろしく少ないし、世の中は自分の知らない言葉や表現で満ち溢れているからだ。

口に出した途端に(文章にした途端に)まるで違う次元の話をしているように感じてくるし、間違いなく自分が発した言葉なのか不安にもなる。


だから言葉はときに無力なのだ。

しかも無力で残酷なのだ。

言葉に置換した途端に真実性が薄れてしまうせいで。


言葉というのはある程度習得してしまうとそれ以上は飛躍的に増えるものではない。

それは努力次第というふうにも言えるが、世の中には本当にいろいろな言葉を使った表現あるから死ぬまで耳にしない言葉もたくさんあるはずなのだ。

努力するという範疇を超えた領域なのだ。


しかし言葉には力がある。

言葉は全ての表現の根幹だからだ。

他人に自分という人間を理解してもらうには、まず言葉のコミュニケーションをうまくとることが重要だし、コミュニケーションをとるときはやはり表現したい気持ちに忠実な言葉を選ぶ必要がある。

でも大概はうまく言葉を選ぶことができずに苛まれる。

力があるからこそ生じる宿命的な焦燥感。


自分の考えや論旨を正確に寸分の狂いもなく表現できる人間などどこにもいない。

たとえ新聞記者や作家でさえも。

それがもし可能なことならば日本語はもっと単純化しているに違いない。

膨大な言葉の中から最も適当だと思われる言葉をチョイスして表現する。

でもチョイスした言葉で本当に適当なのか立ち止まって考える。

その繰り返しだ。


言葉の探求とは終わりの見えないサハラマラソンのようなものだ。

長くて厳しい。

そこに面白みや達成感を感じる人がチャレンジする。


日本語には曖昧さや奥ゆかしさが生み出すある種の美しさがあり、表現の領域は際限がない。

新境地はいくらでもある。

開拓してみたいと思う。

今、やっと自分のやりたいことのスタートラインを引けた気がする。

これからだ。

人と人との繋がりというのは目に見えるものではないし、熱い(暑い)とか冷たい(寒い)とか肌で感覚するものでもない。


それは感覚するというより、流れ――流れというのはその人と自分の間を流れる気の流れである――を感じるという方がしっくりくる。


人は生まれながらにして他人との繋がりを欲する。

生れ落ちた瞬間からは両親に対して、そして次第に自立していくにつれて自分と関わり合う人々に対して。

人間は誰しも人との繋がりを多かれ少なかれ持っているものだし、一人ぼっちで生きている人間など誰一人存在はしない。

好意的にも否定的にも。

だから、自分がその繋がりをどのように確かなものにしていくかで人生の価値は随分と変わってくる。

不安定ではなくしっかりと輪郭をもつものになるように、その繋がりを確かなものにしていく。


それが道である。


たとえ足場の悪い道だとしてもそれは自分が整備してきた道だし、足場が悪いならそれに順応することを覚えればいいのだ。

のっぺりと平坦な道を歩き続けていては、それが道であるかどうかも不安になってくる。

ごつごつして歩きにくい道は注意深く下を見たり前を見たりするし、路肩に咲いている小さな花にも気づくことができる。


のっぺりとした道で無目的にいろいろ忘れ物をしてくるよりも、歩は遅くともいろいろなことに気がつけるようなごつごつした道のほうが歩いているという実感が湧いてくる。

時々は休むし寄り道もする。

それでいいのだ。


私は人との繋がりの上を歩いていく。

いつからか私は季節のにおいから遠ざかってしまった。

夏の終わりを告げるあの絶望的に永遠へ向かって突き抜けるような秋の青空を最後に目にしたのはいつだったろう。

記憶に頼ってもそれがいつだったかぼんやりと思い出すことさえ困難になっている。


「今日は春のにおいがした」と言った人間を私は2人知っている。


春のにおい、それは冬の終わりを待ち望むたくさんの生き物たちの生きようとする強い意志。


季節は休むことなく確実に変化を続けている。

月の明かりも届かない暗い夜が果てしなく拡がっている間でさえも。

現在の1分後は変わらず厳しい冬であっても、確実に1分前よりは春に向かっているのだ。

寒さの厳しい冬がただ黙々と絶望的に続いているようで、それらは確実に暖かな春を迎えるにあたっての必要条件である冬なのだ。


冬を乗り越えれば必ず春が来る。

その季節の移ろいは刹那であり、移り行く様がはっきりと目に映るものでもない。

それはある種の昇華された感覚に訴えるものなのだ。

感覚することを感覚できる人間になりたい。

常に思考と感情のスイッチを入れ、感覚しようとする感覚を研ぎ澄ませる。

そして物事に奥行きと幅を持たせる。


長く厳しい冬の終わりを知る。

昨日、修理から戻ってきたばかりのおにゅう携帯に

あつあつのコーヒーぶっかけました。。。


ジーザス!!!


水害ってあとからじわじわ内部に浸透して終いには何も機能しなくなるってパターンらしい。

わが携帯よ、コーヒーなんかに負けるな。

頑張れ!!!!!!!!!!!!!!


もうすぐ『ノルウェイの森』が読み終わります。

3度目くらいかな。

今回はじっくり理解しながら読みました。

いろいろと途中で考えました。


読み終わったら感想書きます。


久しぶりにイケメンと1on1したので刺激の強い日でした。

どうなることやら・・・

久々に会う親友との1日。

気がつけば1ヶ月くらい会ってなくて


ついこないだまでは週2くらいで会ってはずなのに


そういうサイクルが一度切れてしまって

ご無沙汰になってしまってたんだけど


久しぶりだけど、

この感じ久しぶりじゃない

みたいな。


静かに、でも爆発的に『ひゅん』て

2人が自然になった。


そういう自然でなめらかな時間は

私にとって心地良くもあり、

静かに充電できる時間。


最近は心がとげとげしていることが多くて

しおれてたりもしたから

そういう大切なひととの時間で

羽を休めて

たくさん刺さったとげを抜いて

また元通りに。


何か動きたい

何か考えたい


っていう行動欲と知識欲の芽が

気がついたら自分の中で芽生えてて

そんな自分に驚いたりもして

そわそわもじもじ落ち着かない夜。


そんでもって

ついこないだ新年を迎えたはずなのに

気がつけばもう1月が終わりかけてて

意識しなければ

時間は無条件に、自動的に、永遠に、積み重ねられてしまうことに気づいた夜。


やはり、ぐずぐずしてる時間はない。

1分1秒。


思考回路にスイッチいれて

重くなった腰あげて

思いついたら即行動。


悩んでたじろいでる暇は

人生にはないらしい。


今の自分がすべきこと

やりたいこと


何だろう??

言うまでもなくビートルズの代表曲

『Strawberry Fields Forever』から名づけました。


実在した孤児院Strawberry Fieldsは、John Lennonが幼少期によく友達と忍び込んで遊んだり、ひとり空想にふけては内側に眠る自分と対峙して自己を形成していた場所。

幼いJohn LennonにとってStrawberry Fieldsは心の拠り所でもあり、自分自身を解放できる場所でした。


実在していながら彼にとってユートピアでもあったStrawberry Fields。


日々考え思い浮かんだ何気ないことばや気持ちを文章にすることで、私なりのStrawberry Fieldsを構築できたらと、そんな想いで日記を綴っていこうと思います。