言葉は感情的で残酷でときに無力だ。
それでも私たちは信じている。
言葉のチカラを。
最近放送されている朝日新聞のCMである。
新聞という情報媒体は、紙面いっぱいに写真と言葉の連なりで社会の動きを私たちに伝える。
テレビと違って動きや音声はなく、感情もない。
テレビの場合、悲しいニュースのときキャスターは少し悲しげな表情でいつもより少し悲しげな声色でそれを伝えるし、バラエティやお笑い番組は、絶え間なく笑い声や拍手を挿入したり、おもしろおかしいテロップを出して過度の視覚的聴覚的演出をするし、出演者は精一杯体を張って必要以上のリアクションをとってその存在をアピールする。
それに比べて新聞はとても静かだ。
静かすぎる。
風が吹いても波紋すら立たないシステムのしっかりした湖の湖面のようだ。
しいんと静まり返って真上に浮かんでいる蒼い月だけを水面に写しているような湖。
新聞は実に様々な動きを放棄しているようにも感じられる。
文章に一切の修飾は許されないし、演出も必要ない。
目の前にある事実をなぞるように、写真と文章でその事実を紙面に起こす。
漢字ドリルの書き順にそって点線の上を鉛筆で丁寧になぞっていくように。
だから新聞には第三者の感情というのが一切感じられない。
感情を挿入していては真実に至らないからだ。
感情を入れてしまうと書き手の主観が入り多かれ少なかれ事実に脚色が生じる。
事実をただ事実として報道するには、まず一切の感情を放棄することから始まる。
何も感じないし何も考えない。
いや、感情を殺し頭をニュートラルな状態にして、ひたすら事実を書く。
CMでも言っているように言葉は本来感情的で残酷でときに無力だ。
何かを相手に伝えたいとき、その思いを適当と思われる言葉に置換して発する。
でも言葉にした途端、伝えたいことの半分も伝えられないもどかしさに苛まれる。
日々頭で管理されている言葉の数というのは恐ろしく少ないし、世の中は自分の知らない言葉や表現で満ち溢れているからだ。
口に出した途端に(文章にした途端に)まるで違う次元の話をしているように感じてくるし、間違いなく自分が発した言葉なのか不安にもなる。
だから言葉はときに無力なのだ。
しかも無力で残酷なのだ。
言葉に置換した途端に真実性が薄れてしまうせいで。
言葉というのはある程度習得してしまうとそれ以上は飛躍的に増えるものではない。
それは努力次第というふうにも言えるが、世の中には本当にいろいろな言葉を使った表現あるから死ぬまで耳にしない言葉もたくさんあるはずなのだ。
努力するという範疇を超えた領域なのだ。
しかし言葉には力がある。
言葉は全ての表現の根幹だからだ。
他人に自分という人間を理解してもらうには、まず言葉のコミュニケーションをうまくとることが重要だし、コミュニケーションをとるときはやはり表現したい気持ちに忠実な言葉を選ぶ必要がある。
でも大概はうまく言葉を選ぶことができずに苛まれる。
力があるからこそ生じる宿命的な焦燥感。
自分の考えや論旨を正確に寸分の狂いもなく表現できる人間などどこにもいない。
たとえ新聞記者や作家でさえも。
それがもし可能なことならば日本語はもっと単純化しているに違いない。
膨大な言葉の中から最も適当だと思われる言葉をチョイスして表現する。
でもチョイスした言葉で本当に適当なのか立ち止まって考える。
その繰り返しだ。
言葉の探求とは終わりの見えないサハラマラソンのようなものだ。
長くて厳しい。
そこに面白みや達成感を感じる人がチャレンジする。
日本語には曖昧さや奥ゆかしさが生み出すある種の美しさがあり、表現の領域は際限がない。
新境地はいくらでもある。
開拓してみたいと思う。
今、やっと自分のやりたいことのスタートラインを引けた気がする。
これからだ。