1冊目の『目のまえのつづき』は「死」、2冊目の『いま』は「生」を扱ったとすると、3冊目の『そこにすわろうとおもう』は「性」を扱ったものと理解されることもあるが、大橋さんの感覚はおそらくどちらかといえば「肉」に近い。

とにかく「肉団子」を撮りたいと。「肉団子」を撮るためには「肉」が「絡み合う」必要があると。きわめて論理的。

大勢の男女の「肉」の「絡み合い」を撮りたいという話を、大橋さんはカンパニー松尾さんに持ちかけた。松尾さんは、その予算規模から、「ゼロになりたいんだね、きみは。」と答えたそうだ。実際、大橋さんの預金通帳はこの作品のために残高ゼロになったという。松尾さんの協力で約300人が集まる。

ところで、話はそれるけど、ここでまたカンパニー松尾さんのお名前を耳にした。「TSUTAYA」の屋号が化政文化のプロデューサー蔦屋重三郎に由来しているというのは有名だが、僕は松尾さんは、「平成の蔦屋重三郎」の一人なんじゃないかと思う。

大橋さんはこの写真集の出版を40歳の誕生日の2日前に設定した。この作品は、30代で世に出さねばならないと思ったという。これも今37歳の私には良く理解できる気がする。この時期というのは、いろいろと決めねばならないことがある。しかも、たぶんそれは割と重要な意味を持つ。

大橋さんはこの間、戦場カメラマンの仕事に誘われたりしたそうだが、気が向かなかったそうだ。東日本大震災の被災地にも行かなかった。

そのような非日常の中に身を置くよりも、日常の中に「激しさ」を見出す。

大橋さんに対し、海外の方が国内よりも活躍の場があるのではないかという声があるが、そのことに対しては多少違和感を覚えている様子だった。それはたぶんこのことと関係がある。どこにいようと、どのような仕事であろうと、シャッターを押す瞬間は自分の中のことである。「撮るというエゴ」にもっと忠実に振る舞うことは可能なのではないか。

ただ、『そこにすわろうとおもう』の無修整版は、日本で出版することは現状ではできないので、海外で出版できるのならばそうしたいともおっしゃっていたが。

ところで、『そこにすわろうとおもう』の無修整版を荒木経惟さんにみせたところ、「これは修整しなきゃ出せないね」と言われ、続けて、「でもな、写真は修整するが、心は修整されない」と言われたそうだ。鳥肌ものじゃないか。

大橋さんは自分がやっていることがアートかアートでないかには関心がないという。作為は確かに人をしらけさせる要素になり得る。でも、大橋さんがやっていることが無作為なのかと言われれば、もちろん全然違う。全き作為の塊である。

たとえば、『そこにすわろうとおもう』の中で、男女の間にわずかな隙間の空いている写真があるのだが、大橋さんは、それを自分の意図していたものとは違ったと言った。自分は「肉団子」を撮りたいのであって、このような隙間ができたのは本意ではなかったと。そこで、隙間がなくなるようにさまざまな工夫をしている。たとえば、床と肉体が連続的に見えるように、床を肌の色に近いものにしていたりする。

アートかアートでないかに関心がないというのは、イエスと同じ気持ちなのかもしれない。イエスというのは、もちろんあのキリスト教の創始者のことだ。彼は自分がやっていることが宗教であるという自覚はなかっただろうと、佐々木中が『切りとれ、あの祈る手を』の中で言っていた。でも自分が何をしたいのかについては、徹底的に自覚的だったはずだ。

文章が思わぬ長文になってしまい、最後は少し散漫になってしまったか。

ここで「まとめ」みたいな文が短く書けると、とてもかっこいいのだけれど、現状ではそれは私には無理みたいだ。

とにかく、昨夜の貴重な体験を形にして残したいと、それだけを思い、文章化してしまいました。この体験が自分にとってどういう意味を持つのか、整理するにはもう少し時間が必要みたいです。