3年前の夏に起きた「大阪二児置き去り死事件」を題材とした2つの作品が今秋世に出された。杉山春『ルポ虐待』と緒方貴臣監督『子宮に沈める』。前者は今週月曜に購入し読了した。とくに事件を詳細に描いた第一章は読んでいてつらいなんてものじゃなかった。本を読み進めることにこれほどの困難を感じたことはかつてあっただろうか? 後者は今週水曜日に新宿ケイズシネマで観た。監督の緒方さんが子育てに関係のない男性に見てほしいということを書いていたが、それは私のことだ。



確かに厳しい内容だったが、それでも私が終始冷静に観られたのは、『ルポ虐待』を読んで、現実はもっと厳しかったことを知っていたのと、子育てに関係のない男性だからだろう。これが子育て中の女性ならそうはいかない。 「大阪二児置き去り死事件」についての僕の認識は、3年前の年末にブログに書いた。頼るべき時に、頼るべき人を知っているということは、我々の「生存」(と敢えて言うが)のためには不可欠だと思う。杉山さんや緒方さんとも、認識は重なるはずだ。 ただし、『子宮に沈める』は、「母子家庭の貧困」や「社会福祉の不足」を声高に訴える映画ではない。「読もうと思えばそう読み取れる」という程度で、そういう要素は希薄だ。というか、もしそういう訴えが映画の中心なら、この映画を観る必要はない。観なくてもわかっていることなのだから。 この映画の中心は、子どもたちだけが取り残された数十日間、いったい部屋の中では何が起きていたのか、だ。それは我々が見ることのできなかったこと、もし目の前で現実に起こっているなら、決して手をこまねいて見ているはずのないことである。ところが現実には、我々は見ることができず、悲劇ということばでは表現しきれない出来事が起こってしまった。 ただし、先述の通り、「母子家庭の貧困」や「社会福祉の不足」といったことは、少し注意を払えばこの社会にとってもはや「自明」のことなのだ。我々は、見えたはずのものを、見ないようにしてきたのではないか? 映画のエンドロールは「これは終わりではない」ということを、無音で我々に伝えてくる。場内が明るくなっても、その場にいる全員がしばらく席を立つことができなかった。 『ルポ虐待』では、母親は「解離性障害」であり、辛すぎる過去を忘却し隔離することで、自分を守ったという。ならばこの社会も同じではないだろうか。彼女に30年の服役を科し、特殊なケースとして切り離し忘れ去ることで、何かが解決するのだろうか? 『ルポ虐待』を読み、『子宮に沈める』を観てから、子どもを観る目がはっきりと変わった。あの子はいったい誰と一緒にいるのだろうか?何をしゃべっているのだろうか?表情はどうだろうか?保育士に連れられた子どもの集団が、お互いに何ごとか話しながら歩いている。今日は寒かったが、道行く子どもが顔を上げ「寒いね」と隣を歩く父親に話しかけている。通りから見えるファーストフード店の店内では、母親の隣で子どもがジュースを飲んでいる。 そういうことが、いちいち具体的に気になり、目に、あるいは耳に入ってくるようになった。緒方さんが「子育てに関係のない男性に観てほしい」と言ったのはこういうことなのだろう。 当たり前のことだけど、誰かが困って自分をたよってきたら、助けてあげよう。自分の手に余るようなら、解決策を一緒に探してあげよう。そういうところから始まるのではないか。