19日、第9回呼吸ケアと誤嚥ケア学会に参加。

名だたる先生方の講義に耳を傾けながら、これまで自分がかかわってきた食支援を振り返る良い機会となりました。
「人生を良くする」と書いて「食」。改めて口から食べることの素晴らしさを再認するとともに、食支援におけるギアチェンジ、楽しみ嚥下への移行期は?なにをもってそれらを判断するか?など、食支援の奥深さを改めて考えさせられる内容でした。

私自身、昨年までは嚥下診療をリードしてくれる医師、歯科医師がいない地域での在宅というフィールドで、悪戦苦闘しながら食支援に携わってきました。その中で私は多くの患者、利用者を通じて「食べることの支援も、食べないことの決断も、人生においては同等に素晴らしい」ということを教わりました。

口から食べることの素晴らしさについての言及や、それを推進する活発な動きに対し水をさすつもりはありません。しかし、口から食べることを実現する難しさ、そしてそれを継続させることはさらに難しいことも積極的に発信されるべきだと思っています。今のままでは「死因、誤嚥性肺炎」という烙印のもと、「食べさせたばっかりに…」という後悔に苛まれるご家族やその支援者で溢れてしまうのではないかと懸念しております。患者の側から口元に運んだスプーンの数だけ、何かあったときには苦しみや後悔も大きいのです。

住まいに「住み慣れた自宅」があるように、食にも「食べ慣れた食べ方」があります。こと「食」においては安全のボーダーラインを守ることが非常に難しいと感じています。食べ始めることはそう難しいことではありません。けれども、長期的スパンで見るとそのアクセルやブレーキワーク、まさにギアチェンジのタイミングが難しく、そのズレが命取りになることも少なくありません。

誤嚥性肺炎という言葉だけが先行しそれを懸念するあまりの自己防衛的ことなかれ主義は、患者から食の機会を奪い、生きる喜びを奪うでしょう。そして、食の喜びや楽しみに目を奪われた盲目的食支援もまた、介護負担の増大による在宅生活の破綻や窒息といった事故、ひいては余命を縮めることにもなりかねません。

食べるという選択も、食べないという決断も、在宅で生活する人々にとってそのどちらもが同等に素晴らしく価値あるものであり、その人らしく「生きる」を表現した食や生活の支援となることを私は願っています。そして、自分自身もかかわりを見つめ直し続け、より良い支援へと繋げて行きたいと思っています。

写真は嚥下の厳しさを教わった井上先生、前職にてお世話になった栗山先生と。
学びと振り返りの機会を頂き、ありがとうございました。

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