五木寛之『親鸞』を

やっと読了。

恩師に勧めていただいて、

読んだのだった。

恩師が言うように異形のものを学ぼうと思ったのだけれど、

私のなかでそれ以上にひっかかるところがあった。

 

最近、というかずっとずっと

胸につかえてきてはいることなのだけれど、

血縁とは何だろうと思う。

親鸞という人は、

この小説の中で「血縁」のあるものに対して

人々が当然もっているだろうと思われる

情というものがないように描かれている。

むしろ、血縁のない、

家や出自というものからかけ離れたところで

出会う人々との関わりのほうを大切にしているように読める。

 

親鸞は血縁のある父にも母にも、弟にも

自分の子どもにも、

冷たくはしないけれども、

情はない。

むしろ、法然上人のほうとの関わりや、

預けられていた先での奉公人との関わりのほうが

優しく、あたたかみのあるものを築いていけるのだ。

 

そしてそのことが、私の胸を打つのは、

私もまた自分の血縁関係のある人間との関わりよりも、

そうではないところで出会ってきた人との

関わりのほうに重きを置いてしまっているからなのだろうなと思う。

 

一方で、

申麻呂と親鸞との会話にも、

泣いてしまうのだけれど。

自分の出自を長い間知らずに生きてきた

申麻呂が、父親・母親が何者であるかを知り、

親鸞と会話する場面。

親鸞からの「これまで、親に会いたいと思うたことはなかったのか」という質問に、

「ありませぬ。そういうことを考えては、生きていけませんでした」と申麻呂が答える。

親が何者で、自分がどこから来たのか知らない状態で、

それでも体ひとつで生きていかねばならなかった子ども。

そうしなければ、生きてこられなかった子ども。

 

そうして、どこかで何かの力が働いて、

自分のルーツを知っていく。

そうして自分がどこから来たのかが定まっていく。

その関わりのなかで生きていく。